シンガポールの学際的パフォーマンス・アーティスト
話す、歩く、触れるといった日常的で単純な行為が、アマンダ・ヘンの芸術活動の基盤になっている。この事実が示すのは、アーティストの役割をイメージやオブジェの制作ではなく、空間、交流、関係、経験を促進することに変えたいというヘンの強い意志である。社会におけるジェンダーの役割、文化的アイデンティティの政治、グローバル化した都市変遷の傾向がヘンの主な関心事であり、彼女の活動を支えている。ヘンは税務署に勤めていたがやりがいを見出せず、1986年、30代後半でラサール芸術大学の版画コースを受講し始め、アート制作の世界に足を踏み入れた。2年間のコースを修了すると、その年のうちに先駆的なアート集団「アーティスツ・ヴィレッジ」を共同設立した。イギリスのロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズで女性解放運動とフェミニスト・アートを研究したのちに、西オーストラリアのカーティン工科大学(現カーティン大学)で美術の学士号を取得し、1993年に卒業した。ヘンは、ビジュアルアートの実践によって、特にパフォーマンスに基づく作品やプロセス主導の作品を通して、自身の周囲の出来事に意味のある形で反応し、社会状況や結果に対する世の中の人々の意識や習慣的な反応を変えることができると気づいた。彼女のコミュニティに根付いた活動への関心は、1999年にシンガポール初のアーティストが運営する女性集団、ウィメン・イン・ザ・アーツ(WITA)を設立するきっかけとなった。
ヘンの作品の多くは、シンガポールの伝統的な家父長制の家庭で育った独身中国人女性としての経験を扱い、そこからさらに発展している。例えば《彼女とその食器カバー(She and Her Dishcover)》(1991年)は、家事労働者としての女性の矮小化された立場を、自己発見と承認の活動として捉え直すインスタレーションである。パフォーマンス作品《彼[女](S/He)》(1994年)は、急速に西洋化するシンガポールにおいて、(兄や姉は英語の学校に通ったのに)中国語で教育を行う学校に入れられた経験を具体例に、シンガポール人の人格形成における西洋・東洋の文化の衝突を考察した。その後はインスタレーション《喪失(Missing)》(1994年)で、アジア人女性の嬰児殺しを題材にジェンダー不平等を探求した。当時、潮州語話者である母親が直面していた社会的、言語的な疎外感を元にしたのが、1996年から97年にかけてのプロジェクト《もう一人の女性(Another Woman)》である。この作品でヘンは母親の隣でポーズをとり、感情的な距離感から深い抱擁まで、さまざまな段階の脱衣のポーズをとることで、世代を超える複雑な家族の絆と対話の可能性を表現した。その流れを汲む《女性たちの間(Between Women)》と《語る身体(Narrating Bodies)》(ともに1999-2000年)は、女性の身体の表象様式と、特定の文化的文脈の中で互いに関係を築いていく女性の声の主体性を探究する作品だ。
2000年以降、ヘンは、国際的に知られているシンガポールガール(シンガポール航空の客室乗務員で、バティック地の民族衣装、ケバヤの制服を着ている)の国家的でエキゾチックなイメージにも傾倒していった。この制服を着たヘンが、環境問題、歴史、記憶において重要なシンガポールのさまざまな場所に登場するシリーズは、いずれも世界に宣伝されることはない場所で撮影されている。長期にわたるこの「シンガール(Singirl)」プロジェクトの最も印象的な作品は、18歳以上の女性来場者を特設ブースに招き入れ、(シンガポールガールの真面目で慎ましいイメージに対抗して)自分の裸のお尻の写真を撮ってもらい、それをウェブサイト「singirl.online」に投稿してもらうというものだった。サイトでは、パレードのように順番に並べられた写真をスクロールできるようになっており、従来の美の基準、身体の客観化、知覚に疑問を投げかける。
このような作品制作を通して日常的、身体的、共同体主義的なものについての再評価と検証を行ったことをきっかけに、ヘンはパフォーマティブでありながら共同的で反復的なアート活動を行うようになった。中でも有名な作品は、《チャットしよう(Let’s Chat)》(1996年)と《歩こう(Let’s Walk)》(1999年)で、ライブパフォーマンス、ワークショップ、ドキュメンテーション展示などの形で、長年にわたってさまざまな国で、さまざまな形で再演されてきた。《チャットしよう》は、鑑賞者がヘンや他の参加者とテーブルを囲み、モヤシのひげ取りをしたりお茶を飲んだりしながら会話するパフォーマンス作品で、昔行われていたような近所どうしの井戸端会議を再現することを目的としている。《歩こう》は、ヘンや一般参加者がヒールの高い靴を口にくわえ、手鏡だけを頼りに通りを後ろ向きに歩くパフォーマンスのシリーズで、1997年のアジア金融危機で企業がリストラを行った際に女性従業員が真っ先に解雇されたというニュースや、女性たちが仕事を続けるためにエステや整形手術に頼り、技術や教育よりも美容を優先しているというニュースからインスピレーションを得て制作された。
日常的な習慣や交流を用いたパフォーマンスは、パフォーマンスアートやフォーラムシアターへの国からの助成が1990年代に停止された際、こうしたジャンルを存続させるための戦略でもあった。ヘンはまた、アートと現実の境界線を曖昧にすることで、アートが生活の中でどのように機能しうるかを問い直し、美術へのアクセシビリティと鑑賞の民主化を達成した。その最も良い例と言えそうなのが、劇団ザ・ネセサリー・ステージ(The Necessary Stage)による実験的な演劇イベントの一環で上演された《アマンダとともに歩む(Walk with Amanda)》(2000年)である。この作品では、観客を劇場のロビーから近くの屋台村に案内し、そこでヘンがピンクのテーブルクロスを広げて料理を振る舞った。閉幕間際、ヘンは観客のうちの一人に彼女のTシャツを切らせ、血のついた現金包みから観客たちに入場料を払い戻した。その後、観客は再び劇場へと案内されるが、その際ヘンは長いレッドカーペットを広げ、観客全員がその上を歩いて戻ることになった。この時、観客はもはや受動的な鑑賞者ではなく、作品の参加者として送り返されたのである。
プログラム「The Flow of History. Southeast Asian Women Artists」の一環として、アジア・アート・アーカイブ(AAA)との共同制作