韓国系アメリカ人のコンセプチュアル・アーティスト、作家、映画作家
テレサ・ハッキョン・チャの革新的な作品は、コンセプチュアル・アート、文学、映画の境界をかき消した。チャはパフォーマンスとマルチメディアのアーティストとして、さまざまな分野を横断する作品群を通じて、追放、言語、異文化間のアイデンティティといったテーマに取り組んだ。そしてフェミニズムの系譜を辿り、多様なメディアを行き来しながらも、常に文字表現に立ち返り、言語が持つアイデンティティ形成の力と本質的な限界を暴き出した。チャは多言語話者だった。韓国語を母語として育ち、12歳で家族とともにアメリカへ移住すると、英語を習得し、フランス語の学習を始めた。その後、1969年から1979年までカリフォルニア大学バークレー校で、1976年にはパリでフランス語を継続して学んだ。チャの家族は、日本の朝鮮半島占領と朝鮮戦争から逃れるため、繰り返し移住を強いられた過去があった。母親は満州で育ち、家族は後に朝鮮半島に戻ったが、最終的にアメリカに移住してサンフランシスコに定住した。
チャはバークレー校在学中に比較文学と美術の4つの学位を取得し、アーティストとして制作活動を行った。例えば《不毛の洞窟の無言者(Barren Cave Mute)》(1974年)では、タイトルの3つの単語が長いパラフィン紙に記されており、ろうそくの炎が紙の表面に塗布されたロウを溶かすにつれてゆっくりと言葉が現れるというパフォーマンスを制作した。8分間のモノクロ映像作品《口から口へ(Mouth to Mouth)》(1975年)では、英語と韓国語の単語が画面に現れたのちに口が「O」の形を作り、閉じる。これは言語習得とアイデンティティ形成の始まりを暗示している。
チャの両親が幼かった頃の朝鮮半島は日本の統治下にあり、韓国語を話すことが禁じられていた。言語の抑圧という事態は、1982年に出版された代表作『Dictée(ディクテ)』[邦訳は『ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール』、青土社、2003年]で考察される。時にアーティストブック、時に実験的小説または詩集と呼ばれる『Dictée』は、チャ自身が複数のアイデンティティの間を滑り抜けたのと同じように、特定のジャンルへの分類を拒む作品だ。急進的なまでに複雑性を孕んでいて、追放・移住・言語に関する生涯をかけた考察である。英語とフランス語で書かれ、挿画は韓国語と漢字も含まれおり、歴史的な写真とテキストをコラージュのように組み合わせている。ギリシャのミューズたちに因んで名付けられた9つの章で構成されており、ジャンヌ・ダルク、20世紀初頭の韓国の革命家である柳寛順、チャの母親、そしてチャ自身を含む女性の闘士たちを思い起こさせる作品である。
チャは1980年にニューヨークへ移住し、1982年に写真家リチャード・バーンズ(1953年–)と結婚した。1982年11月5日、バーンズと会うために訪れたマンハッタンのパックビルで、警備員にレイプされて殺害された。暴力的な死によって生涯を断たれ、悲劇的に短命に終わったキャリアの中で生み出した豊かな詩的作品の数々は、死後にようやく評価されるようになった。革新的な形式を用いたチャの制作活動は、次世代のアジア系アメリカ人女性アーティストたちが、微妙なニュアンスが込められ、高度な知性を要求し、臆することなくコンセプチュアルな作品に挑戦し、自らのアイデンティティを豊かに反映する作品を制作するまでに至る道を切り拓いたのである。