日本人作曲家、造形作家、詩人
塩見允枝子という名は、占いに従って1967年から1969年の間に千枝子から改名したものだ。塩見は、1957年より東京藝術大学楽理科で学んだ。前衛音楽に関心を持ち、1960年に新しい形の即興パフォーマンスを行う「グループ・音楽」を結成し、初めて公の場で作品を演奏する。1961年、オノ・ヨーコ(1933年–)の最初の夫である一柳慧(1933—2022年)のコンサートに参加した。この出来事をきっかけに、一柳からジョージ・マチューナス(1931–1978年)にグループ・音楽の存在が伝えられた。グループ・音楽は、1962年に構想された音楽フェスティバル「Very Early Music」の企画のために集結したのを最後に、それを実現することなく解消する。一方、塩見はオブジェと日常生活を関連付け、時空間を超えた音楽的な観念の探求していった。1962・63年から、塩見はひたすらテキストを分割して書く「アクション・ポエム」の制作をはじめる。1963年、34個の異なる大きさの折りたたみ式の箱で構成された《エンドレス・ボックス》を制作した。ナム・ジュン・パイク(1932–2006年)の助言により、マチューナスに本作を送ることで、フルクサスへの加入が叶った。
1964年にニューヨークに到着し、カーネギー・ホールでのフルクサス・シンフォニー・オーケストラに参加した。その後1年間、塩見は《顔のための消える音楽》など数々のパフォーマンスを達成した。最も有名な作品である9つのメール・アートから成る「スペイシャル・ポエム」(1965-1975年)は、音楽、造形芸術、詩を組み合わせたものだ。塩見は、複数の人物に単純なアクションを課す手紙を送り、それぞれが自身の解釈でパフォーマンスとして実現し、報告ドキュメントを塩見に送り返すように依頼した。世界中で同時にアクションを起こすことを可能にし、人間の実際の交流そのものを作品化した。
1965年の帰国後、塩見は日本でフルクサスのコンセプトを広めるために尽力し、徐々に最新のテクノロジーを応用するようになる。
1990年代から、《フルクサス・メディア・オペラ》(1994年)のように、フルクサスの作品を再解釈する活動をはじめた。