江戸時代後期の歌人、書家、陶芸家。古来の和歌のモチーフと、個人的な経験にまつわるシンプルで直接的な考察を融合させた作風で知られる。
大田垣蓮月(1791–1875年)は、大名と花魁の間に私生児として生まれ、40代前半までに夫や子どもを次々と失ったとされる。困難に満ちた生涯だったが、創造性を発揮した。蓮月はもともと誠(のぶ)と名付けられたが、おそらく実父であるとされる武家藤堂氏一門の要請により、生後まもなく京都の浄土宗の寺、知恩院の大田垣家に養子に出された。
蓮月は幼少の頃、京都郊外の丹波亀山城で御殿奉公にあがり、文学や武芸、囲碁などの上流階級の教育を受けた。亀山での生活は、実父と養子縁組した家族が共同で手配したものと考えられており、高貴な血筋の若い女性にふさわしい教育を受けさせたかったと見られる。2人目の夫の死後、若干33歳で出家し、蓮月と名乗った。父と残された子どもたちの死後、芸術家として再起を図り、《へちまの形をした掛花生》(1800年代)などの和歌をあしらった陶磁器を手早く作って売り、ささやかな生計を立てていた。また、《月桜歌》(1867年)など和歌に絵を添えた紙の作品もしばしば制作した。
蓮月は生前、歌人、書家、陶芸家として最もよく知られ、1830年代後半には「平安人物志」に和歌と絵画で何度も登場した。流れるような書体は平安時代(794–1185年)の女流文学に影響を受けたもので、その歌の文体は特に小沢蘆庵(1723–1801年)や香川景樹(1768-1843年)の影響を受けている。文章は、古くからある和歌のモチーフと、個人的な経験についてのシンプルで直接的な考察を融合させている。陶磁器は蓮月焼と呼ばれ、学問に典型的に用いられる漢語ではなく、わかりやすい和語で自身の和歌が描かれていることが人気を博し、絶頂期には、京都のどの家庭にも少なくとも1つはあったと言われている。
蓮月は生涯を通じて、さまざまな芸術家、作家、知識人に影響を与え、コラボレーションを行った。特に、文人画家の富岡鉄斎(1836/37–1924年)は、若い頃に住み込みで蓮月の助手となった。また、死後に二代目蓮月を襲名した陶芸家の黒田光良(1823–1895年)は有名である。蓮月は、歌人の高畠式部(1785–1881年)や税所敦子(1825–1900年)など、蓮月の存命中に活躍した女性の画家や作家はもちろん、蓮月の伝記を初期に書いた一人である画家の上村松園(1875–1949年)のように、蓮月の没後、20世紀に活躍した人物にも影響を与えた。作品と作風は今日でも人気があり、生前から今に至るまで、独特の書体や陶器の作風を模倣したものが広まっている。
「AMIS: AWARE Museum Initiative and Support」プログラムの一環として、デンバー美術館との共同企画