日本・ブラジル人画家
大竹富江は、日本の美学ともうひとつの故郷の活気に満ちた文化的風景を融合させた、ブラジルにおける抽象美術の先駆者である。ブラジルで最も評価される芸術家のひとりになるまでの大竹の旅路は、1936年にを訪ねてサンパウロに渡ったが、第二次世界大戦勃発により、現地で足止めを食らい帰国できなくなるという、予期せぬ形で始まりを告げた。
1952年に大竹は菅野圭介(1909–1963年)の指導の下、39歳という年齢で初めて本格的に美術習得を始めたにもかかわらず、急速にブラジル美術シーンの中心的人物となっていった。1953年には、サンパウロの日系人芸術家のグループ、聖美会に参加した。グループメンバーには1950年代に抽象美術作品を発展させた間部学(1924–1997年)や福島近(1920–2001年)といった芸術家たちがおり、大竹は彼らとともに活動する唯一の女性画家であった。
この間、大竹は近代美術のサロンやグループ展に複数回出展した。1957年には、サンパウロ近代美術館で個展が開催されている。大竹の初期の具象作品は主にサンパウロの都市の風景を対象として、後期印象派や表現主義的造形言語を採用していたが、これには当時の芸術家たちのグループの間で浸透していたことの影響を反映している。徐々に大竹は、1953年制作の無題の作品(ベッティオル・コレクション所蔵)にみられるように、幾何学的抽象表現を開拓していった。
1959年は大竹の抽象美術へと向かう旅路のなかで鍵となるターニングポイントの年である。大竹は目隠しの状態で制作する「ブラインド・ペインティング」シリーズを開始したのである。この実践は1960年代半ばまで続き、サンパウロ国際ビエンナーレへの複数回参加した時期と重なっている。このシリーズは直観を絵画制作の原動力とみなし、アラベスク模様、斑点そして円形といった筆使いを特徴とする、柔らかい動きの抽象表現を生み出すにいたった(無題、1960年)。
以降、大竹は神道や仏教といった日本の伝統的な信仰と同時代の抽象表現の潮流とを統合させて、トランスカルチュラルな幾何学抽象表現を深化させていった。例えば、大竹は円環の形態を頻繁に用いているが、これは真空と宇宙とを同時に象徴する、東洋哲学に基づいた概念である(無題、1961年)。
1970年代および80年代には、大竹はシルクスクリーン印刷、リトグラフ、金属版画で制作を行っていた。しばしば直線や角ばった形態と対比させられた星や銀河を彷彿とさせる「宇宙幾何学」 を制作し、1980年代以降には巨大なスケールの彫刻と立体型プロジェクトにも着手するようになる。リオデジャネイロにあるロドリゴデフレイタス湖に設置されたインスタレーション、《Estrela do Mar(ヒトデ)》(1985年)と同様に、こうした作品群がブラジル中の都市に設置されている。
1983年、リオデジャネイロのブラジル芸術批評家協会(ABCA)年間最優秀芸術家賞を受賞。1990年代以降は、主に円や楕円といった幾何学的形態がさらに顕著にあらわれるとともにダイナミックで躍動感あふれる傾向が作品に見られるようになる。鋭くなっていく形態の輪郭は、2000年代の大竹が制作を始めた、自由でしなやかな曲線の動きが日本の書道を思わせる、カーボンスチール彫刻の線へと発展していく。2008年以降に制作された無題の彫刻作品のひとつは、東京都現代美術館で見ることができる。
1995年、大竹はブラジルの文化省より視覚芸術部門最優秀賞を受賞している。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム