メキシコ人画家
フリーダ・カーロは、写真家であった父親からカラー写真とレタッチ技術を学んだ。1925年、交通事故によって瀕死の重症を負い、彼女の人生とすべての作品の運命が左右されることになる。長期間の入院を強いられながらも、エネルギッシュな若きカーロは、病床にあってもできる数少ない活動である絵画の道へ進んだ。1911年のメキシコ革命時の生まれであり、共産党のメンバーでもあったカーロは写真家のティナ・モドッティ(1896–1942年)などに影響を受けた熱心な政治運動家だった。1929年、メキシコ絵画の大家であるディエゴ・リベラ(1886–1957年)と結婚する。自由な精神を持ったカーロは、現代性への賛同と同時に「メキシコ性(mexicanidad)」を支持する意思を、とりわけ身につける衣服によって表明していた。カーロは生涯にわたって1925年の事故の後遺症に苦しめられ、すべての妊娠は流産に終わった。しかし、仮にカーロの作品が本質的に苦痛に満ちた身体との関わりを表現していたとしても、彼女は苦しみに浸るのではなく、むしろ制御するために外部に表出させ、それを他者に共有することで克服しようと試みている。カーロにとって、絵画を描くという芸術表現は、自由なカタルシスの探究なのだ。作品の半数近くは自画像で占められており、カーロの作品のほとんどは、絵画による日記と定義できるだろう。
最も重要な絵画である《ベルベットのドレスを着た自画像(Self Portrait in a Velvet Dress)》(1926年)では、イタリア・ルネッサンスの巨匠、特にアーニョロ・ブロンツィーノ(1503–1572年)やパルミジャニーノ(1503–1540年)を丹念に研究した形跡が確認できる。この作品では、大衆的な着想を得ながらも個人的で、細密画家さながらの独自のスタイルが確立されており、真っ向から強く主題を主張している。カーロの作品の多くは、作家自身の深い感情を表現しているものだ。複数のモチーフで構成されたキャンバスには、一つの作品内に異なる時間と空間が描かれることで、精神世界が表現されている。アンドレ・ブルトン(1896–1966年)は、カーロの芸術表現がシュルレアリスム的な世界観に満ちていると考えていた。しかし、彼女の作品は、シュルレアリスムとの単なる類似性からその動向に集約できるものではないだろうし、カーロ自身もその関連性について否定している。カーロは病に苦しみながらも、世界中を飛び回り、人々を魅了し続けた。ニューヨークでは、ギャラリストのジュリアン・レヴィ(1906–1981年)や、気品のある写真作品で知られるニコラス・ムライ(1892–1965年)、そのほか多くの人々の心を惹きつけた。カーロは、1939年にパリを訪れた際に出会ったブルトンの周囲の作家や知識人に対してはあまり評価しなかったが、唯一、マルセル・デュシャン(1887–1968年)を褒め称えていたという。メキシコに戻ったカーロは、ディエゴ・リベラと離婚した。その後、カーロのよく知られた大作の一つである《二人のフリーダ(Las Dos Fridas)》(メキシコ現代美術館、1939年)を制作する。この絵画では、ベンチに座った二人の女性のふたつの心臓が血管で繋がっており、作家の二面性を表している。右側は、メキシコの文化を誇り高く主張し守ろうとするメキシコ人のカーロ、対して左側は、ヨーロッパの衣服を纏い、伝統から解放されたカーロである。暗喩的な描写に満ちたこの作品によって、カーロは破局を経験したことによる自殺願望から解き放たれた。そして、回復への感謝の気持ちを示すため、伝統的な贈り物として、1951年に《ファリル博士の肖像画のある自画像(Self Portrait with the Portrait of Doctor Farill)》を制作した。彼女の痛ましい境遇と絵画の象徴であるイーゼルと作品の前にいる作家自身という古典的な自画像の形式だ。フアン・ファリル医師への親愛を示した肖像画のかかったイーゼルの前で、車椅子に腰掛けたカーロは、彼女の心臓を表すパレットと、血の流れを示す絵筆の束を握っている。カーロは、自らの血と心臓を捧げて絵を描いていたのだ。