日本人造形芸術家
日本女子大学附属高校とアメリカ・イリノイ州のノースウェスタン大学で学び、画家としてのキャリアをスタートさせる。1962年、東京画廊で最初の個展を開催。1966年「芸術と技術の実験 (エクスペリメント・イン・アート・アンド・テクノロジー:E.A.T.)」に参加したことが、中谷の仕事を新たな方向へ導いた。アーティストとエンジニアを集結させたE.A.T.創立者のビリー・クルーヴァーは、中谷の作品の展開への助言をした人物であり、1969年に中谷は東京のE.A.T.の代表となった。
1970年の日本万国博覧会での《ペプシ館》建設の機会に制作したパビリオンの周囲を包み込む《ペプシ館》霧の彫刻#47773 が、初めて人工的な霧を使って実現した作品だった。以後、ヴィデオ制作と並行して、流動的で没入感のある環境を生み出すインスタレーションのパイオニアの一人となる。
中谷は次第に、ノズルの装置から無数の水の粒子を拡散する技術的なインスタレーションによって生成される人工的な環境芸術に、どのように自然な霧の印象を再生産できるか模索し始める。中谷は自身の作品を自然生成的なものに近づけるために、空気と風を結びつけて運動させるようにした。1970年代からは、鑑賞者が十分に体験できる作品として成り立つ、屋外で絶えず変わり続ける環境芸術を目指した。中谷によって生み出された霧は、数々のコラボレーションの場として共有されてきた。例えば、1974年、デイヴィッド・チュードアによるスウェーデン・クナーヴェルシェア島での《アイランド・アイ・アイランド・イア(I.E.I.E.)》デイヴィッド・チュードア・コンサートのための霧環境(企画案)。あるいは、1980年、トリシャ・ブラウン「オーパール・ループ」の舞台芸術では、中谷が初めて制作した室内での霧の中をダンサーたちが行き交った。同年、日本の男鹿川の渓谷で、ビル・ヴィオラと霧の彫刻《男鹿川》霧の彫刻/パフォーマンス#47690を作り、即興のコンサートを行った。中谷の作品名の番号は、霧が発生した地点に最も近い気象観測所の国際番号と対応している。
40年以上にわたり、中谷は作品の非永続性の探求を続け、地形や環境といった状況に応じて、自らの環境芸術および霧の彫刻を概念化してきた。中谷が言うところの「風との会話」は、絶えず多様なイメージを与える作品をもたらし、その無限の変化によって鑑賞者を驚かせてきた。
フランスでは、中谷の作品はあまり紹介されていない。2011年、ムーズ県が中谷を招待して実現された「Vent des forêts (森の風)」が初めてのプロジェクトだった。このプロジェクトで生み出された《ニッセイ・シュル・エール村の苔庭》霧の庭 #07172は、設置後毎春再現され、日本の庭園のように景観の一部を変化させる。展覧会「Dynamo」(グラン・パレ、パリ、2013年)では、グラン・パレの出入り口のニンフの池で霧を発生させた。