アメリカの画家
ロイス・マイルー・ジョーンズは、アフリカ系アメリカ人の彫刻家メタ・ウォリック・フラー(1877–1968年)に勧められ、ボストン美術館の美術学校とデザイン学校(現在のタフツ大学ボストン美術館附属校)に入学し、同校初のアフリカ系アメリカ人の卒業生となった。若くして才能を発揮したジョーンズは、18歳で初個展を開催し、衣装デザイナーのグレース・リプリー(生没年不明)のアシスタントとして働きはじめる。人種差別に直面していたジョーンズだが、1930年になってようやく、ハーレム・ルネサンスの発祥の地であるハワード大学で教職に就くことができた。その後、同大学で最も卓越した教授の一人となった。
1937年には、パリのアカデミー・ジュリアンで研鑽を積む。画家のエミール・ベルナール(1868–1941年)とともに制作していたジョーンズは、戸外制作を取り入れるようになった。パリの街並みを印象派の様式で描いた《テルトル広場(Place du Tertre)》(1938年)は、1938年のアンデパンダン展で高い評価を受けた。当時パリの画廊で大流行していたアフリカ美術との出会いは、ジョーンズに大きな影響を与えた。《呪物(Les Fétiches)》(1938年)は、その影響を特に強く示している。その後ニューヨークに戻り、アフリカ系アメリカ人の日々の暮らしに制作の主題を移行する。《暴行の生贄(黙想)(Mob Victim (Meditation))》(1944年)で見られる、暴行される寸前の年老いた男性から湧き出るような威厳や、《ジェニー(Jennie)》(1943年)で描かれた魚を捌く若い女性の美しい姿は、評論家と大衆から称賛を集めた。
ジョーンズは、長きに渡り様々な機関から制度的な差別を受けてきたが、1955年にようやくアフリカ系アメリカ人として初めてワシントン芸術家協会への入会を許可された。1953年、ハイチ人アーティストのルイ・ヴェルニョ・ピエール=ノエル(?–1982年)と結婚。以後、ハイチにたびたび滞在するようになり、ジョーンズの絵画は、より色彩豊かに、純度高く、抽象度を増していった。《ブードゥー教のヴェヴェ 2 (Vévé vaudou II )》(1963年)で見られるように、作品の主題もまた精神性を強く表現していくようになる。1970年代初期にアフリカ諸国を頻繁に訪ねた経験が生かされた《タイ地方のウビの少女(Ubi Girl from Tai Region)》(1972年)では、鋭いデザイン感覚を見せている。画家、デザイナー、イラストレーター、教育者など様々な顔をもったジョーンズは、アフリカ系アメリカ美術が世に知れ渡る一助を担う素晴らしい功績を残した。