日本が「バブル」という名の好景気に沸き始めた1986年、この国の美術界でもっとも影響力のある雑誌『美術手帖』の8月号で、ある特集が組まれる。「美術の超少女たち」と銘打たれたこの特集は、39名の女性アーティストを取り上げたものだった。今日なら、このタイトルを見た誰もが、成人した女性たちを「超少女」などという言葉で括ることに対して眉をひそめるだろう。「少女」という言葉からは、男性が女性に対して抱く「幼さ」「無邪気さ」「無垢さ」のようなステレオタイプな視点が垣間見える。ちなみに当時の『美術手帖』の編集長は男性であったが、編集部員は男性3名、女性3名というジェンダー・バランスの取れた体制であった。本特集はどのような意図で組まれたのだろう。以下に、編集長が編集後記に寄せた文章を引用する。
最近の美術作品のなかから、とくに女性の仕事として、構成し組みあげるというより、部分を連続し増殖させることによって作られるものが眼についた。それは意識して、大所高所に立った美術史的な系譜から自らを位置づけるというより、個人史的な記憶に基づいた作業に見える。つまり現在の生活のなかから出てきた、生きた表現のように思えるのだ。男性と対比した「女性作家」とか「ウーマン・アーティスト」という言葉では表わしにくい意味を、「超少女」に込めたつもりである1 。
男性と対比するのではない意味を込めた、とあるが、「超少女」という特異な言葉で何を伝えようとしたのはか判然としない。もともと「超少女」という言葉は、画家で評論家、エッセイストの宮迫千鶴が、1984年に出版した『超少女へ』という本で広く知られるようになった。この本は、さまざまな文学作品や少女漫画に登場する少女たちを通して、宮迫自身を含めた現実の少女たちを取り巻く状況を批判的に論じたものである。とりわけ、第3章の「「非少女」から「超少女」へ 萩尾望都をめぐる近未来的少女論」で宮迫は、1970年代にデビューし、少女漫画に革新をもたらした萩尾望都(1949年–)の複数の作品を読み解きながら、主体性を抜き去られ小さな繭の内側に囲い込まれた近代的「少女」と、主体性の自由さを知ってしまったがゆえに疎外される「非少女」という図式から、主体的であり続けるという強靭な精神力と他者への共感を持ち、男性原理を跳ねのける「超少女」へと至る展開を、鮮やかに描いてみせた。宮迫が「超少女」と呼んだ、火星人の少女を主人公にした漫画『スター・レッド』が出版されたのは、1980年のことである。このように、「超少女」という言葉はもともとフェミニズム的視点で用いられたものであったが、『美術手帖』の特集では、「超少女」という言葉が宮迫の論じた文脈から切り離されて、非常にあいまいなものとして独り歩きしてしまっている。
ともあれ、当時それなりのインパクトを与え、今日も折に触れて参照されるこの特集が、実際にどのような内容だったのか見ていきたい。特集の冒頭には、編集部による次のような言葉が掲げられている。
現在のアート・シーンの中、活躍目覚ましい若い女性たち、インスタレーションの分野を著しく華やかにしたのも、作品素材の許容度を大きく前進させたのも彼女たちだった。それはちょうど男性的な史観が頭うちになっていく過程とも符合し、女であることをハンディにしたり、克服すべき課題とし、つまりは男性的な論理や体系の中でアイデンティティを獲得しようとした世代と明瞭に分離しだしている。すでに男が神話的英雄の末裔ではない時代、女も太母の分身などではなく、現代の自由人の一性として、自らの感性を“少女趣味”などという矮小な器に閉じこめることなく、純化し、造形化していくことにためらいはないのだ2 。
現代の私たちの感覚では首肯しがたい表現が散見されるが、現代の価値観によっておよそ30年前の特集を断罪することが本稿の目的ではない。ただ、このステートメントも一貫して男性目線で書かれていることは指摘しておこう。ステートメントの横には39名の女性アーティストたちの名前が並べられ、続くページでは作品画像とポートレート写真、簡単な略歴によるそれぞれのアーティストの紹介が続く。さらに、そのうち9名のアーティストについては、編集者や学芸員といった肩書をもつ、あるいは美術史や美術評論を専門とする9名の女性によって、アトリエ訪問記事が1ページずつ執筆されている。アトリエを訪れての作家論や作品分析が続く中、吉澤美香(1959年–)を取り上げた荒木扶佐子だけは、やや引いた視点で次のように書いている。「近年とみに「女性論」「女性学」がさかんだが、日本の現代美術画壇においても、数年来、一連の若い「女性作家」たちの作品に通底するなにものかに、現代美術新時代を託そう(あるいは託したい)という動きが見られた(傍点原著者)」3 。そして、「少女」として括られることに否定的でありつつ、それを声高に唱えることもしない吉澤の態度に、新しい世代の可能性を見出す。その後茨木県立近代美術館の学芸員となった荒木は、2007年の吉澤の個展に際して当時のことを振り返り、「女性が女性をレポートするという企画に、どこか週刊誌のような胡散臭さを感じ」ていたことを吐露しつつ、評論家やマスコミが作り出す流れに惑わされることなく、「生活の中でリアリティの感じられる物だけを徹底して追及」しながら、等身大の制作を続けてきた作家への信頼を表明している4 。
特集に話を戻すと、作家紹介、アトリエ訪問記事に続いて、8ページにわたって展開されるのが、クリエイティヴディレクターの榎本了壱と英文学者の松岡和子による対談「いま駆ける女」である。1980年代当時、榎本はアート、雑誌、演劇などさまざまなジャンルを横断的にプロデュースしていた人物であり、松岡は翻訳家、評論家でもあり、後年シェイクスピアの全訳を手掛けたことでも知られる。この対談の中で、松岡は、「男性の作家たちでも、このごろ布を使ったり段ボールを使ったりして、本当なら日常生活の用のために使われる、もともとは美術の素材じゃなかったものをどんどん持ってきてモノをつくっている人たちがいますね」5 と、当時の美術の動向について述べている。たしかに、1970年代のミニマルでコンセプチュアルな傾向への反動として、1980年代は絵画や彫刻の復権が唱えられたと同時に、大量消費社会を背景として、榎本の指摘するように、商品として生産されたさまざまなプロダクツが作品の素材として用いられるようになった。こうした状況と、「女性が持っていたすごく具象的な、自分の手でさわったものじゃないと納得しないという感性とがぶつかった」6 という松岡の分析は興味深い。特集で取り上げられている作家たちの作品を見ると、布や紙、板、流木、段ボール、ビニール、プラスチック、発泡スチロール、土、金属、毛皮、革、タイルといった実にさまざまな素材を自在に変形し、組み合わせたものがほとんどである。
二人の議論にもう一つ付け加えるとしたら、彼女たちの表現手段として、平面で完結せず、空間全体を使ったインスタレーションが圧倒的に多いという点である。インスタレーションはこの時代に始まったものではなく、また女性作家のみに見られた傾向でもないが、絵画や彫刻といった伝統のない、比較的新しいジャンルで多くの女性たちが自身の表現を開花させたことは、特筆に値するだろう。本特集でも取り上げられた松井智恵(1960年–)の展示をMoMAで企画したバーバラ・ロンドンは、次のように書いている。
特に女性の作家にとってインスタレーションは魅力的なものである。その同時代性は、化石化した伝統によって定義づけされることがない。性別による差別も含めて、インスタレーションにいかなるヒエラルキーはない。女性が生活する場にある材料も含めて、自分が望むどのような素材でも自由に使うことができる7 。
この指摘は、松井だけでなく、80年代に活躍した多くの女性作家たちに当てはまるように思われる。彼女たちは、もうひと世代前の女性たちなら忌避したかもしれない、「女性らしい」と形容されるような素材を何のためらいもなく使い、インスタレーションという比較的新しい手法で、表現を実現している。対談の中で松岡が「いまフェミニズムの新しい一つのレヴェルとして、女であることをもう堂々と出している。それこそ、女で何が悪いのという姿勢がすごく素直なかたちで出ていた」8 と語る通り、一般的には1980年代終わりから1990年代にかけて起こったという第3派フェミニズムの波がすでに押し寄せていたといえるだろう。
他方、榎本は彼女たちの制作スタイルを過渡期的な状態であるとしつつ、「そういう人たちの行為をしぶとく支援する態勢にないと、くじけてどんどんなくなっちゃって、結局は短いスパンで、ああ、そういう時代もあったよね、ということで終わっちゃうからね」9 と予言している。今回39名のアーティストについてインターネットで調べた限りでは、特集で紹介された女性作家のうち、約半数については現在も作家活動を継続しているのかどうか、情報が確認できなかった。アーティストではない仕事を選んだり、結婚して家庭に入ったり、あるいはその他さまざまな一人一人の事情があるだろうから、単純に割合だけでその是非を問うことはできない。ただ、アーティスト活動を継続している女性についても、同じように1980年代に登場した男性作家たちに比べると、評価が遅れている感は否めない。大学で教鞭をとりながら美術館や画廊での発表を続ける吉澤美香や、15年ほどのブランクを経て近年活動を再開した前本彰子(1957年–)、東京を離れて故郷で作家活動の道を切り開き、近年福岡の美術館で連続して個展を開催した牛島智子(1958年–)をはじめ、精力的に制作を続ける彼女たちの作品に再び関心が注がれるようになったのは、80年代の歴史化が進むここ数年のことである。1980年代に関わらず、とりわけ近代以降の美術において、誰が何をどのように評価してきたのか、その視点を常に持ちながら、過去を顧みて、今後の調査研究や価値判断へとつなげていく必要があるだろう。
「超少女」特集を構成する最後の要素は、当時大阪芸術大学の講師で、のちに京都大学教授、高松市美術館館長を歴任する哲学者であり詩人の篠原資明による「超少女身辺宇宙」と題された6ページのテキストである。篠原は彼女たちの作品に、家や家庭にまつわる主題、縫うという手芸的行為、女性の身体、身に纏う衣装というモチーフといった、彼女たちに共通する身近なもの、身辺性への偏愛を見出す。彼女たちの多種多様な表現を丁寧に分析しつつも、それがほとんど女性性に結び付けられてしまっており、その合間に男性である篠原が女性に抱く幻想が見え隠れする。この特集の唯一の論考というべきテキストで、女性アーティストの作品を過度に「女性らしさ」に結び付けた作家論が展開されたのは残念と言わざるを得ない。そもそも、榎本が語ったような、生産された商品を作品の素材にしたり、篠原の指摘するように、身近なものへの偏愛に生きるという態度は、女性だけに限定されるものではない。
1989年に『少女民俗学』という本を書いた大塚英志は、近代社会において「モノ」を生産することをやめ、消費するだけになった日本人の共通感覚を「少女」と名付けている10。高度経済成長を経て、バブルを迎えた日本において、性別年齢問わず多くの人が内なる少女を抱えていた、と大塚は指摘する。とするならば、消費するだけの「少女」を超えて、制作するようになった主体が「超少女」であると解釈することもできるだろう。その意味では、大量消費社会を象徴する商品を段ボールで作品化し一世を風靡した日比野克彦(1958年–)や、廃材や雑誌、広告のイメージなどを組み合わせて作品を制作した大竹伸朗(1955年–)も、この特集に入れられてしかるべきだったかもしれない。ともあれ、80年代にデビューした彼らの作品が多く美術館に収蔵され、大規模な個展が開催されているのに比べて、彼女たちを日本の美術の流れのなかに位置付ける仕事は、まだまだこれからである。
横山由季子
東京国立近代美術館研究員。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程満期退学。 パリ西大学ナンテール・ラ・デファンス校美術史・表象文化史研究科留学。世田谷区美術館学芸員、国立新美術館アソシエイトフェロー、金沢21世紀美術館学芸員を経て現職。日仏の近代美術を専門とし、近年では日本近代の女性画家について研究を進めている。