明治時代に新しく導入された展覧会という制度は、画家たちの活動形態に大きな変化をもたらした。描かれた作品は公に開かれた会場に並べられ、不特定多数の人々によって自由に鑑賞され、比較され、批評され、評価されるようになる。近代日本の美術界は、この展覧会という場を中心に発展していった。そこで本稿では、明治期における南画系女性画家の活動を、展覧会、とりわけ明治15年(1882年)と17年の2回実施された内国絵画共進会を中心に見ていきたい。
明治維新以降、衰退していた日本固有の美術の復興を目的に、官設の公募展として開催された内国絵画共進会には、全国各地からあまたの日本画家たちが作品を出品しており、女性画家の出品も多く確認できる。第2回展の際に発行された『第二回内国絵画共進会出品人略譜』などの資料をもとに確認したところ、女性であることが確実な画家の数は、第1回展と2回展あわせて58名であった。その内訳を流派別にみると、南宗派が34名、狩野派が5名、円山四条派が5名とつづき、そのほかの流派についてはいずれも3名以下。南宗派が圧倒的多数を占めている。また、南宗派の女性画家たちの活動地について見ると、東京が17名といちばん多く、次いで大阪が5名、大分が2名、残りは岩手、福島、新潟、長野、栃木、岐阜、京都、兵庫、愛媛、徳島で、各1名ずつとなっている。京都の少なさが目立つが、東京、大阪といった都市部だけでなく、地方にも南宗派、すなわち南画を描く女性たちがいたことが目を引く。
こうした南画系の女性画家たちが出品した作品については、出品目録に記載された作品名から判断する限りにおいて、花鳥画が全体の五割強を占め、四割弱が山水画、残りが蔬菜や虫魚、人物などであった。また、作品名も単に「山水」や「草花」とのみ記されたものが多く、具体的な内容については不明なものが多い。
そうしたなかで、第1回展へ武村耕靄(1852–1915年)が出品した《松島真景》は、現在京都の實相寺に伝来しており、その内容や制作経緯を知ることが出来る貴重な作例である。同作は日本三景のひとつである松島を写したもので、耕靄自ら、かつて松島を訪れた際に写した写生をもとに制作したものであると語っている1。耕靄は松島のほか、鎌倉や日光をはじめ全国各地へ頻繁に旅行しており、訪れた先で行った写生をもとに、しばしば本画を制作している。
また、残念ながら作品の現所在は不明ながら、波多野華涯(1863–1944年)が第2回展へ出品した《南紀瀞峡図》も、実際に現地を訪れて描かれた作品である。華涯は明治16年に和歌山県から瀞峡を訪れているが、そのころの瀞峡はいまだ観光地化されておらず、交通インフラも整っていないようなところであった。さらに当日は悪天候が重なり、周りからは引き返すように止められたものの、華涯は険しい山や谷を越えてはじめて神秘的な山水の景色に出会えるとして、果敢に挑み、瀞峡へとたどり着いた2。華涯はそこで得た山水の新面目をもとに画を制作したといい、おそらくそれが、このときの出品作であったと推測される。
さらにもう一点、第1回展に橋本青江(1828-1905年頃)が出品した《住吉真景》も、具体的な日本の地名を作品名としている点で注目される。青江は大坂・船場に生まれ、幼少より住吉の岡田半江宅に住み込みで絵を学んでいたとされ3、同作もまた、住吉の実景を踏まえて描かれたものであったと考えられる。耕靄や華涯にくらべてふた回り以上年上の青江だが、幕末から明治にかけ、近畿・中国地方から四国や九州、または熱海や東京へも旅し、各地で文人たちと交流しては作品を残している。
ここではわずかに3点を取り上げただけだが、いずれの作品も画家たちが自らの足で各地を巡り、そこで得た感興をもとに描かれたもの――描かれたと考えられるもの――であった。「山水」などといった形式的な作品名ではなく、具体的な地名を挙げて作品名としている点からも、これらの作品が他の一般的な山水画とは異なるものであると、画家たちが自負していたようすがうかがえよう。
また、受賞という点で注目されるのが野口小蘋(1847–1917年)である。第1、2回展で褒状を受賞した女性画家は延べ6名を数えるが、2回ともに受賞しているのは、小蘋ただひとり。小蘋は第1回展へ《山水》と《桂花》を、第2回展へ《山水》と《花卉》を出品しており、作品名からその詳細をうかがうことは出来ないものの、山水と花鳥を1点ずつ出品していたことがわかる。明治期を代表する女性画家のひとりである小蘋は、展覧会での活躍という点から見ても、他の女性画家たちにくらべて頭ひとつ抜けた存在であった。小蘋は日本美術協会展をはじめとする国内外の展覧会へ作品を出品し、明治37年には女性初の帝室技芸員となり、また大正天皇御即位の折には、《悠紀地方風俗歌屛風》(大正4年、皇居三の丸尚蔵館)の揮毫を拝命している。
小蘋もまた、明治期に新たな山水表現を追求した画家で、明治20年代には実際の風景の写生をもとにした山水画の制作に力を注いでおり、明治26年にアメリカで開催されたシカゴ・コロンブス万国博覧会へは、塩原の実景にもとづく《野州塩原天狗巌真景》を出品している。さらにその後、小蘋は《箱根真景図屛風》(明治40年、山種美術館)のような、実景に即した日本風景をより穏やかな表現で描くようになっていく。
明治期における南画といえば、明治15年にフェノロサによって批判されて以降、形式主義的な表現などに対する非難が高まりを見せるが、耕靄らの写生に基づく山水表現は、こうした時代背景のなかで試みられたものであった。とりわけ耕靄については、フェノロサが南画を批判する以前から、日本画改良に対する意識を強く持っており、西洋絵画なども積極的に学びながら、自身の制作にも活かしていた4。
さて、ここまで見てきた4名のうち、最年長の青江はその後も内国勧業博覧会などへ作品を出品しているが、その数は決して多くはなく、明治38年頃に亡くなっている。華涯も第3回内国勧業博覧会へ作品を出品するが、明治29年に結婚し、しばらくのあいだ画壇から離れることとなる。一方、小蘋と耕靄は明治20年代以降も積極的に作品を展覧会へ出品していくが、彼女たちが主な活動の場としたのが、明治20年に龍池会から改称した日本美術協会であった。このふたりをはじめ、日本美術協会展では多くの女性画家たちが活躍しており、とりわけ明治期には、小蘋、奥原晴翠(1854–1921年)、高林芳谷(1840–1894年)、佐久間棲谷(1868年–?)、松林雪貞(1880–1970年)、跡見玉枝(1858–1943年)、耕靄、野口小蕙(1878–1945年)ら南画系女性画家たちが、1等賞金牌、2等賞銀牌、3等賞銅牌などを獲得している。
また、南画系女性画家たちのなかには所属する団体の役職に就くものもおり、小蘋は日本美術協会の第一部委員および委員顧問を務め、晴翠も第一部委員となっている。同会以外の団体では、日本南宗画会の幹事を耕靄が、委員を晴翠が務めており、日本画会の幹事を耕靄、晴翠、玉枝、鈴木棲岳(生没年不詳)が、さらに明治40年に開設された文部省美術展覧会をめぐる対立のなかで結成された正派同志会の評議員を、耕靄、晴翠、玉枝に加え、馬杉青琴(1875–1910年)が務めている。
このように、明治期には日本美術協会展を中心に、南画系女性画家たちの活躍が見られたが、日本美術協会や、南画家を含むいわゆる旧派と呼ばれた画家たちの評価が遅れていることもあり、これまで彼女たちの活動にもあまり関心が払われてこなかったように思われる。それは決して女性画家に限ったことではないものの、今後、こうした画家たちの活動にも光を当てなおし、再評価を進めていくことで、既存の近代日本美術史により広く多角的な視野を持ち込むことが出来るのではないかと期待される。
田所 泰
泉屋博古館東京学芸員。2015年3月、早稲田大学文学学術院美術史学コース修士課程修了。独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所企画情報部(2016年4月に文化財情報資料部と改称)アソシエイトフェロー、杉並区立郷土博物館分館学芸担当、実践女子大学香雪記念資料館学芸員を経て現職。主に上村松園や栗原玉葉といった女性美人画家のほか、武村耕靄や橋本青江、波多野華涯といった南画系の女性画家についても研究を行っている。