日本人文人画家、詩人、教師
大胆な水墨山水画で知られる日本画家の奥原晴湖(1837–1913年)は、明治時代(1868-1912年)に男性画家と同等の人気を博した数少ない女性文人画家の一人である。古河藩(現在の茨城県)の武家の四女・池田せつとして生まれ、後に、著名な画家である谷文晁(1763–1841年)の弟子である画家の枚田水石(1796–1863年)に絵を習い始めた。水石の下での初期の絵画教育では、清や明の時代の中国の名画を写本や粉本から頻繁に模写した。絵画に加え、若い頃には武道や学問にも秀でていた。これらはすべて伝統的に男性的な活動であり、芸術や社会において女性というジェンダーに寄せられる期待を、奥原は生涯にわたって覆していくことになる。
故郷の古河で11年間学んだ後、1865年、江戸の下谷に移り住み、そこで活気づいていた文人コミュニティに参加した。ほどなく1871年には自宅に「墨吐烟雲楼」という画室を構え、絵画や漢学を教えた。この画室は男女共学で、最盛期には300人以上の生徒が学んでいた。女性であり、比較的若い画家であったのに、これほど多くの弟子を持ったことは前例のないことだった。門弟や支援者は、芸者、武士、政府高官、美術評論家など、ありとあらゆる階層の人々から成っていた。最も有名な弟子である画家の渡辺晴嵐(1855–1918年)は、画家として成功を収め、奥原のもとで40年以上にわたって活動した。1870年代から80年代は、奥原の芸術家としてのキャリアにおいて最も多作な時期であり、《崖蘭図》(1870~80年代)などの作品は、この時期に完成された大胆な水墨画のスタイルを体現している。
当時の女性画家の規範を回避し、髪を短く切り、男性の服装を好んで着用し、女性画家が署名に付ける「女史」の文字を省くこともあった。こうした選択と、伝統的に男性のものとされた活動に生涯にわたって熟達していたことから、現代の研究者の中には、奥原の代名詞を二元的なジェンダー概念を超えた「they」とする人もいる。奥原が今日生きていたら自身のジェンダーアイデンティティをどう表現したかはわからないが、こうした流動性と転覆が、奥原の芸術生活、私生活の双方の核にあったのは確かだ。
東京で文人画の人気が低迷し、明治維新の政治的混乱が続いた後、1891年に奥原は埼玉県の上川上村に隠棲した。注文による制作を続けていたが、1912年に健康を損なって中止し、翌年に亡くなった。上川上での晩年の作品、例えば《青緑山水図》(1899年)などは、それ以前の作品に比べると、より静かで色彩豊かなアプローチが反映されている。
「AMIS: AWARE Museum Initiative and Support」プログラムの一環として、デンバー美術館との共同企画