日本人書家、歌人、公家
書家、歌人、音楽家として活動した公家の女性、小野お通(1559/68–1650年以前)は、日本の美術史において手がかりの少ない人物である。日本における近世以前の最も著名な女性書家の一人だが、生涯については現在ではほとんど知られておらず、学者の間でも名前の読み方について、「おののおづう」「おののおつう」の2通りで意見が分かれている。京都の貴族社会の一員であり、女官として仕え、戦国三英傑と言われる織田信長(1534–1582年)、豊臣秀吉(1537–1598年)、徳川家康(1543–1616年)の全員から、キャリアのさまざまな局面で支援を受けていたと考えられている。父親は信長の臣下にあった大名の小野政秀(?–1562年)と考えられており、政秀の戦死を受けて、その家臣に預けられたのではないかといわれている。京都では、豊臣家の有力者たちと関わりを持つようになり、秀吉の側室の侍女として、あるいは秀吉自身の侍女として仕えるようになった。
豊臣家の家臣との短い結婚生活の後、小野は、貴族の子女たちに書道、音楽、詩歌などさまざまな芸術を教えることで生計を立てるようになった。その名声が徳川家康の目に留まり、家康の妻や娘の家庭教師として雇われたのではないかと言われている。小野が徳川家に仕えるようになると、家康の77歳の誕生日に肖像画を描くことを依頼されたり、徳川将軍家の娘たちの婚礼に同行したりしたと伝えられる。また、おそらくは家康の娘たちのためにも同様の役割を果たしたと考えられている。
小野は、桃山時代(1574–1600年)から江戸時代(1603–1868年)への激動の過渡期に生きた人物であり、そのことが、今日まで生涯に関する決定的な情報が乏しい理由であると考えられる。江戸時代には、高貴な社会的地位を持つ女性は厳しい制約を受け、通常、自宅や城内の奥の部屋に閉じ込められていた。こうした上流階級の女性たちは全般に、芸術を追求する自由な時間を持っていた。一方、小野がその生涯を通して、こうした制約があるにもかかわらず支配階級のエリートたちの間で広く評価されたのは類まれなことだった。
小野は今日、優れた書の才能において最もよく知られている。小野の書は、流れるように連なる筆運びと筆勢を特徴とし、そこには教養の深さが反映されている。芸術においてどのような教育を受けたかについてはほとんど知られていないが、死後も木版印刷の書籍を通じて、上流階級の女性書家に影響を与え続けた。また、土佐派の画家たちとも関わりがあったと見られ、《土佐派筆 小野お通書 源氏物語画帖》(1600年代初頭)は、小野が土佐派の画家たちと行ったコラボレーションの一例である。現存する作品は少ないが、《布袋唐子図》(1624年)や《渡唐天神》(1600年代初頭)などの書画も高く評価されている。
「AMIS: AWARE Museum Initiative and Support」プログラムの一環として、デンバー美術館との共同企画