日本人写真師
上野国山田郡上久方村(現・群馬県桐生市梅田町)に生まれる。夫・島霞谷(1827−1870年)を撮影した《カボチャを担いで笑う島霞谷像》(1860年頃)の撮影者であり、第一世代の日本女性写真師として知られる。幼名は岡田与祢(よね)、のちに「かく」、霞谷と結婚後、「里宇(りう)」と改名した。7歳から13歳まで、田村梶子(1785−1862年)が開いた寺子屋「松声堂」で学び、天保12(1841)年には一橋徳川家の祐筆として江戸に上る。隆が33歳の頃、絵師および通訳者として一橋徳川家に出入りしていた栃木出身で4歳下の霞谷と出会ったと言い伝えられている。安政2(1855)年に霞谷と結婚し、浅草の観音前門跡裏、立花屋敷後ろの大番屋敷などに住む。
霞谷は幕末維新期に西洋からもたらされた油彩画や写真術を学び、医学書出版のための活版活字の製造などを積極的に研究した。その傍らで、隆も写真技術など西洋文化に触れ、霞谷から写真術を教わる。明治3(1870)年に隆が記したとされる『懐中記』には、写真術に使用された薬剤の名前や製法、値段、コロディオン湿板方式の技法手順等が記載されており、隆の写真への興味が窺える。
元治元(1864)年、当時42歳の霞谷を撮影した肖像写真の台紙裏面に「写真師 島隆」と記し、写真師の名乗りを上げた隆は、のちに桐生で写真館を開業したとされているが、その詳細は明らかではない。慶応元(1865)年には絵師仲間である足利藩士・田﨑草雲(1815−1898年)、慶応2(1866)年頃には外国奉行の河津佑邦(1821−1873年)、明治2(1869)年頃には英国人医師ウィリアム・ウィリス(1837−1894年)を撮影したとされるが、いずれも霞谷、隆のどちらが撮影者かは不明である。
明治3(1870)年に霞谷が急逝したのち、隆は翌明治4(1871)年の暮れに遺品を携えて故郷の桐生へ帰郷した。桐生市梅田にある島家の蔵には、以後代々にわたりこれらの資料が保管され、その数は約2千点に及ぶという。昭和58(1983)年にこの蔵から遺品が発見されたことは、島夫妻の活動を広く世に知らしめる契機となった。この遺品のうちには、前述の霞谷肖像写真(1864年)、霞谷ゆかりの渡辺崋山(1793−1841)、椿椿山(1801−1854)、高久隆古(1810−1858)らの作品や、ガラス湿板などを含む夫妻関連資料1,208点が確認され、群馬県立歴史博物館に寄託されたのち、2008年9月には群馬県指定重要文化財に指定されている。なお、帰郷後に隆が桐生で撮影したと考えられるガラス湿板も、現時点で少なくとも5点確認されている。
アメリカ・ロチェスターでの「An Incomplete History: Women Photographers from Japan, 1864-1997」展(Visual Studies Workshop、1998年6月26日〜8月8日)、「桐生のアーティスト大収穫祭」(大川美術館、2023年10月7日〜12月3日)、「I’m So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now」展(アルル国際写真フェスティバル2024、2024年7月1日〜9月29日)などのグループ展で紹介され、その再評価が高まっている。
しかしながら、直ちに「女性写真師第一号」と称するのは適切とは言い難い。文久元(1861)年頃の鵜飼玉川や、文久2(1862)年の下岡蓮杖による写真館開業以降、少なからぬ女性が写真館で働いていたことが確認されているにもかかわらず、当時の日本における女性写真師に関する調査はいまだ十分とは言えない。隆についても、裏面に記された「写真師」との署名のみで判断するのではなく、写真師としての活動の軌跡をより詳細に明らかにする必要がある。このような観点からも、現段階でその位置づけを確立するのは時期尚早であり、今後のさらなる研究の深化が期待される。
「未来の刻印:日本の女性写真作家たち」プログラム