日本人美術家
裕福だが保守的な家に生まれた草間彌生は、戦時下の日本で幼少期を過ごした。10歳のころ、草間は幻覚を見るようになる。膨張し続ける見えない世界を前にした崩壊感、そこに飲み込まれる恐怖感から逃れるために、絵を描き始める。このように、草間は当初から自らの精神疾患をその創作の核としている。京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)で日本画を学んだ後、1950年代、彼女はより抽象的なフォルムを探求するようになる。作品は美術愛好家の精神科医たちに見出され、日本の美術界で評価を受けることとなる。彼女が幼年期に描いた素描に見られるモチーフ(花、宇宙、ハート)が、無限に広がる均一な網目のようにくり返される。12年後の1957年、彼女はニューヨークに拠点を移し、アート・スチューデンツ・リーグで学んだ。1959年にブラタ・ギャラリーで発表された「無限の網(Infinity Net)」シリーズの、拡大しつづけるかのような構図や線と水玉の網目は、見る者を飲み込むかのようである。この作品によって美術評論家のルーシー・リパード(1937年–)はエキセントリック・アブストラクション・ムーヴメントの中に草間を位置づけた。エキセントリック・アブストラクションは、(それまで立体作品に用いられてこなかった)柔らかさのある素材、とりわけ合成素材の使用によって作られる有機的なフォルムと性的な印象の喚起によって、厳格なミニマリズムを否定し感情や官能性を取り入れることを特徴としたムーブメントである。
1963年、ニューヨークのガートルード・スタイン・ギャラリーにおいて、作家としては初のインスタレーション作品《集合―1000のボート・ショー(Aggregation: One Thousand Boats Show)》(1963年) を発表した。白い男根のような突起物で覆った一艘のボートを部屋の中央に置き、そのボートをモチーフとしたポスターを壁紙として天井と壁一面に貼り付けた作品である。性、食物や家具といったものに、草間は恐怖心と強迫観念を抱いており、創作に昇華されている。同年、草間は自由主義的なハプニング・パフォーマンスやファッションショーを企画・開催した。1973年、草間は日本に帰国。1980年以降はソフト・スカルプチュアや、鏡や人工光の効果を利用したエンバイロンメンタル・アート作品を制作。閉鎖的で官能的な空間の内側を、草間は自身の象徴とも言える水玉模様で埋め尽くしている。1990年代には個展が多数開催され、草間の国際的な知名度を確固たるものとした。知名度の高まりにつれ、草間は大規模なインスタレーションや野外彫刻を多く手がけるようになっている。