はじめに 日本画について
明治政府は、1873年ウィーン万国博覧会への参加を契機に、ヨーロッパの「美術」の概念を日本に導入し、美術学校、展覧会といった制度を取り入れていった。1876年に開校した工部美術学校では、イタリアから教師を招いて初めて西洋式の美術教育をおこなった。工部美術学校は1882年に閉鎖され短期間に終わったが、ここで学んだ小山正太郎は画塾不同舎を開いて後進を育てた。またヨーロッパに留学して学習を続ける者もおり、初期の洋画家たちが巣立った。
1889年には明治政府が東京美術学校を開校し、再び国による美術教育が再開された。ここには絵画科が置かれたが、当初西洋画の教育はおこなわれなかった。岡倉天心の指導のもとに横山大観や菱田春草らが、狩野派を基礎に従来の画材を用いつつ、西洋画を意識した色彩表現や空間表現を取り入れた絵画を制作した。ナショナリズムの高まりを背景に、この新たな近代絵画が日本画と呼ばれるものとなる。1896年に東京美術学校に西洋画科が設置されると、絵画科には日本画科と西洋画科が置かれた。このような日本画の概念は当初東京以外では広く共有されてはおらず、地方都市では従来の南画や四條派といった流派による制作が続いていた。しかし1907年に文部省が全国公募の美術展覧会を設置した際に、応募区分を日本画、西洋画、彫刻、の三部門としたことで、日本の近代絵画において、日本画と西洋画(西洋の技法による日本人の絵画)のジャンルが並立する状況が定着した。日本画は従来の画派を引き継ぐものから大観たちによる新しい試みまでを包括する絵画の総称となった。
1.女性画家と美術教育
・家族から学ぶ
江戸時代の画家たちの頂点に位置したのは幕府の御用(公務としての作画)を務める奥絵師と呼ばれた数人の絵師であった。各藩もそれぞれの御用絵師を抱え、御用絵師たちは原則としては世襲であり、武士の身分であった。彼らのもとにまた弟子たちが集まるというピラミッド型の構図であり、男性のみによって構成されていた。女性たちが本格的に絵を学ぶ機会を得られたのは、近代以前のヨーロッパの場合と同様に、父や兄、夫が画家であった。清原雪信(1643–1682年)は例外的に作品を多数残し、後世まで著名であったが、それは彼女の父が幕府御用絵師狩野探幽の弟子で、母も探幽の血縁であったことが大きかった。18世紀から19世紀には民間で知的環境に恵まれた女性たちが絵を描く例が増えた。南画では、池大雅の妻の玉蘭(1727?–1784年)、谷文晁の妻、幹々 (1769–1799年)、妹の舜英(1772–1832年)、漢詩人梁川星巌の妻、紅蘭(1804–1879年)などが知られた。また浮世絵では葛飾北斎の娘応為が優れた肉筆画を残した。1 雪信作品に女性を描いたものがあり、また女性の南画家たちの作品に中国で女性にふさわしい画題とされた墨蘭を描いた作品がみられるが、男性同様の主題も描いており、女性であることで主題や技法が限定された状況はみられない。
明治時代以降でも家族から学んで女性が画家となる例は少なからずあった。五姓田(渡辺)幽香(1856–1942年)は、父五姓田芳柳、兄義松から水彩画や油絵を学び、夫も含め、一家で職業画家として活動した。幽香はシカゴ・コロンブス博覧会の女性館に油彩画《幼児図》を出品した。また洋画家の吉田ふじを(1887–1987年)は父が洋画家であり、養子に入った兄(後に夫)博と共に上京して不同舎で学び、博からも指導を受けた。渡辺(亀高)文子(1886–1977年)も父が職業画家渡辺豊州であり、後述する女子美術学校で学び、画家の夫を婿養子に迎えた。夫の早世後は画家として家族を支えた。近代になると画家は世襲制度では無くなったが、明治時代には洋画はまだ特殊な新しい技術であったことから、娘にも画業を継がせたのであろう。日本画家でも島成園のように父と兄に学んだ例はあるが、画家たちが個人で開く画塾が盛んとなったことにより、個別に画家のもとに入門して学ぶことができるようになった。
・自立する女性たち
社会秩序が大きく変化した幕末から明治期には、自ら師を求めて画家となった新しい女性たちが現れた。奥原晴湖(1837–1913年)は武士の娘に生まれ、単身上京し、高位の政治家たちの支持により名声を確立した。男性のような身なりをし、結婚せず養女を迎え、展覧会には出品せず、悠々自適な生活を送った。中国明清画に理想を求め、墨画、あるいは墨画淡彩による山水画、花鳥画を描き続けた。
野口小蘋(1847–1917年)は父を早く亡くし、夫は事業に失敗し、十代から職業画家として家族を支えた。展覧会は、小蘋のように独立して活動した女性にとって、男性と対等に発表の機会を得られる重要な機会であった。小蘋は南画家として山水画、花卉画を展覧会に出品して受賞を重ねた。その一方で、1870–80年代には盛んに美人画を描いた。女性の容貌は画一的であるが、中国の男性の文人の趣味であった書画、音楽、挿花などを女性たちが楽しむ設定で描かれ、そうした技芸が当時の「美人」に必要な要素であったことを思わせる。2 後には《美人招涼図》(1887年、山梨県立美術館)のように女性の姿を鑑賞することが目的とみられる作品も描いているが、この作品でも書物が描かれており女性の知的な側面を示唆している。この頃から小蘋は皇室の注文を多く受け、皇女たちへ絵の指導も行う。皇室との関わりを強めて後は、おそらくは「俗」な美人を描くことを控えるようになる。1904年には女性初の帝室技芸員に任じられ、1915年には大正天皇の即位式のための屏風の描き手に選ばれた。そして1907年に発足した文部省美術展覧会(以下文展)では4回まで審査委員を務めた。近代の美術制度によって成功を収めた女性画家として先駆的な存在である。
・学校で学ぶ
工部美術学校では、男子とは別のクラスではあったが、女子学生も西洋画を学ぶことができた。1878年秋に教師のアントニオ・フォンタネージが離日する際の記念写真には6人の女生徒が写っている。その中の山下りん(1857-1939年)、岡村(山室)政子(1858-1936年)は自らの意志でそれぞれ故郷を離れて単身上京し、学校で学んだ。山下りんはロシア正教会によってロシアに派遣されてイコンを学び、イコン専門の画家となった。岡村政子は夫と石版印刷会社信陽堂を経営し、自身も石版画家となった。石版画は1880年代から1890年代にかけて流行し、鑑賞用の一枚刷りが作られ、時事主題から皇室の肖像などを描いたものなど様々であった。その中には洋風の人物表現を取り入れ題名に「美人」という言葉を用いた着飾った芸妓の女性の姿を描いたものも多くみられた。一方、岡村政子は芸妓ではない若い女性を洋画の手法で描き出し、自社の石版画として出版した。《手鞠》(1895年、石版画)では、現代の「少女」が手鞠に糸を巻くという「女の子らしい」手芸にいそしむ様子が的確な描写によって表されている。こうした作品は、新聞『時事新報』の附録として配布され、広く読者に共有された。
神中糸子(1860-1943年)は油彩画家となり、洋画団体である明治美術会会員となり、第3回内国勧業博覧会、1回文展にも出品した。美術教師としても明治女学校、私立女子美術学校西洋画科、女子高等師範学校で講師を務めた。美術学校教育は、家庭環境に関わらずに画家となる大事な手段であった。
・男女別学の美術教育
明治政府は1879年に「教育令」を公布し、小学校より上級の学校では男女が同じ教室で学ぶことを禁じた。3女子の教育内容においては高等教育が制限される一方、裁縫が加えられ、家庭で家事、育児を担うことが重視された。1889年に開校した東京美術学校も男子を対象としたため、女性が美術を学ぶ機会は限られた。1900年代頃から次第に増えた女学校の図画教員には女性が多く、神中糸子のような西洋画家もみられるが、西洋画家の人材がそもそも少ないこともあり、日本画出身の教師の方が多く、日本画に親しみやすい環境があった。4
1901年に私立女子美術学校が開校し、日本画科、西洋画科、彫塑科、蒔絵科、編物科、造花科、刺繍科、裁縫科が設置された。5ここにしばらく女性たちが日本画と西洋画を専門的に学ぶ道が開けた。初期の日本画科で短期間教えた河鍋暁翠(1868-1935年)は父、河鍋暁齊のもとで狩野派の伝統的な絵具の扱いなどの技術を学び、それを学校教育に伝えたという点において、近世と近代の橋渡しをする存在である。暁翠は女性の人物画も描いたが、基本的には父の絵の模倣が多かった。女子美術学校の教育方針も、独自の作品を創作することまでは考えず、運筆から写生、彩色といった基礎技術の習得を重視していたようであった。後に日本画家となる女性たちは、個別に日本画家の画塾に入門して本格的に学習している。女子美術学校の1913年の資料では開校以来の総卒業生数が、日本画科は133名、西洋画科が45名、彫塑科2名、刺繍科178名、造花科162名、編物科48名、裁縫科860名と圧倒的に裁縫科が学生を集め、西洋画科、彫塑科の学生数が少なかったことがわかる。西洋画科では男女のモデルの裸体デッサンをおこなっていた。男性は下着を着けていたが、近藤浩一路『校風漫画』(博文館、1917年)では女性たちが恥ずかしがって背中からばかりデッサンをするというカリカチュアを載せている。『校風漫画』では女子美術学校生が洋画の写生の道具を持って歩く様子を「臆面もなく活歩往来する」様子がひどいものだと批判している。前衛画家となる桂ゆき(1913-1991年)は西洋画に関心を持っていたが、まずは両親の勧めで日本画家池上秀畝のもとで日本画での写生を学んでいる。また戦後にこども向けの絵を描いて著名となるいわさきちひろ(1918-1974年)は洋画家の岡田三郎助が自宅に開いていた女子洋画研究所でデッサンを学ぶが、女子美術学校に入学して洋画を学ぶ希望は親の反対によって実現しなかった。彼女の場合には親の希望で書を学ぶが後に水彩画家という洋画でも日本画でもない第3の道を選んだ。
2.女性美人画家誕生
京都では、東京美術学校より早く1880年に京都府画学校が設立され西洋画を含む絵画教育が始まっていた。当初女性も入学可能であり、後に美人画家として最も有名になる上村松園(1875-1949年)は1887年に12歳でここに入学し、すでに著名な画家であった鈴木松年に師事した。松年が翌年学校を辞めると、その画塾に入門し、歳上の男性たちに混ざって修行を積んだ。このように松園は画家とは関係の無い家に生まれたが、男女別学が定着する直前に美術学校に入ることができたことにより有利な学習環境を得た。晩年の談話をまとめた『青眉抄』(六合書院、1943年)によれば、小さい頃から人物を描くことが好きで、最初に手本としたのは絵草紙屋で売っていた浮世絵や夜店で売っていた絵入りの版本、武者絵、役者絵、貸本屋で借りた読み本の北斎の挿絵などだったという。小学校のときには女性の絵ばかり描いており、画学校での椿や木蓮などの花の一枝を手本どおりに描き、鳥類、山水、樹木、岩石と進む画学校の教育には不満があったという。後年の松園の美人画の作品の中に浮世絵から主題や構図を取り入れている例が数多くみられることが指摘されている。その後も古画の展示会や1897年に帝国京都博物館(後に帝室博物館)が京都に開館すると通って独学した。
松園も小蘋のように展覧会によって成功への足がかりをつかんだ。1890年、第三回内国勧業博覧会に出品した作品を来日中のイギリス王室のコンノート殿下が購入し、これが新聞に報道され評判となった。これによってシカゴ・コロンブス博覧会の女性館展示品を農商務省から依頼され、画家としての自信をつけた。文展でも1907年の1回展から若い女性たちを描いて受賞を続け、その後も帝国美術院展覧会(以下帝展)の重要作家となった。やがて増加する女性画家たちよりも年齢も上であり、早くから活躍したことで、別格の存在となった。松園自身、画家を志してからは女性らしく着飾ることを否定しており、シングル・マザーであったが家事、育児は母などがおこない、ジェンダー的には男性画家と言ってよい仕事ぶりだった。
一方、松園より13歳若い榊原(池田)蕉園(1886–1917年)は東京の裕福な家庭に生まれ、女学校で女子教育を受けた世代に属する。その点が上村松園との大きな違いである。父は実業家、母も趣味で洋画を学んだ。蕉園の談話記事「私の今日あるは全く師の賜」(『婦人画報』51号、1911年1月)によれば、1901年に水野年方に師事するが、それは学業の傍ら「琴、茶湯、挿花などの稽古もせなければならぬ」なかでのことであった。こうした技芸は近世には主として男性の教養であったが、この頃には、良家の若い女性が身につけるべき良き趣味とされていた。蕉園も絵が好きで「小学校時代から雑誌や新聞の挿絵を見ては時々それを写したりして居りました」と述べており、松園よりは新しい時代になるが、やはり雑誌口絵の版画や新聞挿絵を模写して人物を描こうとしていた。父が福沢諭吉門下の実業家であったから福沢諭吉が創刊した『時事新報』を購読していたならば、岡村政子が原画を描いた石版刷りの新聞附録の女性像を見ていた可能性があるだろう。
母が洋画を習っていたにも関わらず蕉園が水野年方に入門したのは、年方が人物画の挿絵を多く描いていたからであろう。同門の鏑木清方、夫となる池田輝方も後に美人画家となった。そして蕉園も1回文展に《もの詣で》(図4)が入賞し、人気画家となった。澤田撫松「閨秀画家榊原蕉園女史」という特集記事が『婦人畫報』(9号、1908年3月)に掲載され「最も若くして而かも最も群を抜いて居る者を求めると、榊原蕉園女史より外にはない」と書かれるほどとなった。蕉園は「先生に始終『人間を寫すので、人形を畫くのでは無い。繪は精神気品が大切だから、其事を忘れてはならぬ』と申されました」と述べており、人物の内面を深めるように促されている。蕉園も展覧会によって著名となり、先輩の松園と並ぶ存在となった。
やはり美人画家となる栗原玉葉(1883-1922年)はもともと貸本屋から借りた小説本の口絵を写していたという。6この時代には武内桂舟、富岡永洗、水野年方といった画家たちが人気の挿絵画家であったが、あるいはもっと古いものを見ていたかもしれない。1907年に女子美術学校に入学するが、教師からは人物画を描くことを嫌がられたと言い、学校の参考品が十分ではなく、博物館や図書館で古い名画を写して人物画を独学した。そうしたなかでも特に子供の絵を描くことを好んでいた。
このように美人画家として人気を博すことになる女性たちは、幼少期から大衆的な出版物を手本に自発的に女性や子供の絵を描いた。このことは彼女たちの生活のなかに、すでに家庭での性別役割分担が浸透していたということであろう。そしてまた、彼女たちが画家の家に生まれていなかったため、明治初期には狩野派や南画に比べて浮世絵や挿絵を「俗」なものとみなす絵画のヒエラルキーがあったことを学ばず、自由に描けたことも重要である。後に松園は浮世絵と比較されることを嫌うが、水野年方から蕉園への「繪は精神気品が大切だ」という教えも、浮世絵の系譜に連なる年方自身が人物画を「俗」とみられることに警戒感を持っていたからであろう。
3.美人の表現
・上村松園
松園がほぼ無背景の画面に若い女性を大きく描く美人画のスタイルを築くのは《人生の花》(1899年、京都市京セラ美術館)の頃からである。《人生の花》は結婚当日、婚礼衣装の若い女性がうつむきがちに母の先導で結婚相手の家に向かう様子を取り上げたもので、同様の作品が複数残されていることから人気の主題であったことがわかる。画面に女性だけを描く先例は、前述の野口小蘋も描いており、この頃には京都在住であった。また京都で多くの日本画家を育てる幸野楳嶺や森寛斎も妓女を描いている。松園の作品が新しい点は芸妓ではなく普通の家の若い娘を描いている点である。そして家から家に嫁ぐ若く従順な女性は、明治政府が推し進めた家父長制に沿う主題である。絵を見る女性が若ければ花嫁に、年配であれば母親に、感情移入することができる。女性画家たちは男性だけでなく女性たちにも支持される作品を描いたことで一層の人気を博した。
上村松園は浮世絵や古画を見て勉強したと回想していたが、それだけでは立体的な人物表現ができるようにはならない。1900–1901年にヨーロッパ視察留学をした日本画家竹内栖鳳は帰国後、モデルを呼んで弟子たちとともに人物画に取り組んだ。松園は栖鳳の渡欧以前に師事しており、時期は不明だが栖鳳の画室で下絵を模写したという。おそらく松園も帰国後の栖鳳による人物研究から学ぶところがあっただろう。
池田蕉園による《春の日》は、若い女性が編み物を手に幼い妹の世話をしながら春の日を楽しんでいる図である。編み物は近代になって紹介された新しい手芸である。当時女性たちが求められた性別役割に合致する主題である。少女の手の指などの表現には立体描写がみられ、西洋画の人体表現にも学んでいたであろう。先に述べたように蕉園は石版画の人物画も見ていた世代である。またフランスでアカデミスム絵画を学んだ岡田三郎助ら洋画家たちが戸外の自然と女性を組み合わせた作品を描くようになっており、蕉園もそうした作品から刺激を受けた可能性があるだろう。岡田は理想化された人体を描く技術を日本人に応用し、豪華な着物を着た若い女性像を発表した。それらはポスターや新聞附録、雑誌口絵などによって広まった。女性雑誌の口絵も多く担当したことから、女性にも人気があったとみられる。岡田は東京美術学校教授で女子美術学校教授も兼任しており、岡田による女性像を日本画家たちも参照したであろう。
・文展
文展には回を追うごとに多くの観衆が押し寄せた。また会場で作品の購入申し込みができたことから、収集家たちが初日に訪れて購入を競った。1912年の6回文展では36日間の入場者数が16万人を越え、1917年の11回文展では36日間に24万人以上が入場した。売約となった点数は、池田蕉園が最多であり、上村松園、河崎蘭香、栗原玉葉、島成園、ら女性の美人画が続いた7。男性画家では池田輝方と鏑木清方が人気であった。
1915年1月号の『日本美術』(17巻3号)は「閨秀作家号」として発刊され、文展で人気の女性画家たちの作品写真が巻頭を飾った。それぞれが異なる学習を経てきた画家であるが、松園の《舞仕度》、栗原玉葉《噂のぬし》をはじめ、ここに収録されたどの作品の女性も、ふっくらとした顔に眉を太めに少し下がり気味に描かれ、両目はやや離れ、まつげは濃く、黒目が大きい顔立ちである。女性画家たちの女性表現に、いわば共通の「型」ができていたことがわかる。おそらく文展に集まる一般の観衆からこうした表現が支持されていたことによるのだろう。「閨秀作家号」の記事、若月松之助「女流作家の価値」では、1905年の日露戦争終結後のナショナリズムの高まりの中で人々が豪華なものを求め、その「機運に乗じて盛んに美人を描き、濃艶な色彩を盛り上げて観者の眼を奪ったのは即ち女作家であった」と指摘している。
1914年に勃発した第一次世界大戦による大戦景気も後押しし、幸せそうな若い女性や子供を描いた作品は益々人気を集めた。坂井犀水も『美術新報』の記事のなかで「婦人を主題とするもの、特に家庭的事相を題目とするものは、最も閨秀作家に適當なる畫題であると思ふ」と述べている。8
1915年の9回文展では特に美人画を一室に集めて展示をしたことからそれが「美人画室」と評され、多くの観客を集めた。一堂に並んだことで、類型的な女性表現がみられたことに対する批判が寄せられた。9そうした批判はとりわけ女性画家に向けられ、新聞、雑誌記事の中には、人気が高かった女性画家に対して男性たちが鬱憤を晴らすかのような論調もみられた。美人画の隆盛は、文展の大衆化とともにあった。そして大衆の支持を得て女性画家たちが隆盛を誇ったようにみえた。しかし男性の審査員や批評家たちが力を持つ展覧会では、彼らの意向に左右されることになった。10回文展では特に関西の女性画家たちが落選したと伝えられた。上村松園も1918年の12回文展には能に主題を得た「生き霊」を描いた《焔》を出品してそれまでの表現を一変させた。一方、池田蕉園が1917年に、河崎蘭香も1918年に相次いで没した。栗原玉葉も1922年に病没する。
・帝展
1919年に帝展が発足すると、当初は美人画は少なかったが、1925年頃から再び美人画が目立って出品されるようになる。鏑木清方も美人画として後世に名高い《築地明石町》(1927年)を描いて帝国美術院賞を受賞するが、自身では美人画の呼称を嫌い、これを「社会画」と位置づけた。帝展重鎮の菊池契月も、自身が女性を描いた絵が美人画とみられることに反論した。すでに地位を築いた男性たちは美人画に背を向けるが、その後帝展では新しい世代が台頭した。女性画家では女子美術学校を卒業し鏑木清方の弟子であった柿内青葉が《十六の春》(1925年、女子美術学校所蔵)で6回帝展に入選すると、翌年には新聞社のカレンダーとして印刷、配布された。大阪の木谷千種(1895–1947年)は6回帝展に《眉の名残》と題した着物から肌が透けて見える豊満な女性像を出品して注目を集めた。
老年にさしかかる上村松園は、ますます能への傾倒を深め、またすでに過去となった明治の風俗を描くことで、現実を離れて理想化した女性像を描いた。度々海外で開かれた日本美術展への出品依頼を受けたのは、そうした理想的な女性像が日本の女性像を海外に提示する役割を期待されたと思われる。さらには1934年には帝展出品作《母子》、1936年には文展招待展出品作《序の舞》が政府買い上げとなる。戦時中に男性たちが戦場に行き母子家庭が増えると、母一人に育てられ、シングル・マザーであった松園の家庭環境も肯定的に捉えられる。1941年には帝国芸術院会員、1944年に帝室技芸員に任じられ、男性画家と遜色ない、あるいはそれ以上のキャリアを築いた。
おわりに
頼りなく儚げな女性を描いた女性画家たちも、現実には独立した画家として生活するために多忙だった。人気を背景に若い女性たちが弟子入りを希望するようになると、自宅を私塾として多くの女性たちに絵の指導をした。池田蕉園の場合には夫の輝方とともに画塾を経営したため、男女の塾生を指導したが、女性画家の画塾では基本的に女性の弟子たちを擁した。木谷千種も蕉園のもとで一時学んでおり、自身では結婚後大阪で画塾八千草会を結成して多くの女性たちを擁し活発に活動した10。基本的に女性たちは結婚前の習い事として通っていたが、千種は1925年には塾を研究所に改組し、展覧会もおこなった。また自身も大阪の女性画家たちと展覧会を組織した。
独身であった栗原玉葉の場合には、画塾が安定した収入源として重要であった。『淑女画報』(7巻3号、1918年3月)では栗原玉葉門下の新年会が盛んである様子を伝えている。弟子達とそれぞれの作品が並んでいる写真を見るならば、どれもよく似ており玉葉のコピーのようである。彼女たちが創造性を発揮するよりもファンとして師の画風を追っていた様子をうかがうことができる。また玉葉は若い女性向け雑誌の口絵も多く手がけた。一方で玉葉自身は女子美術学校卒業生を中心に女性画家たちと研究会、月耀会を1920年に結成し、展覧会を開いている。
若い女性たちが、女性画家たちが描いた理想的な美人に憧れて画塾に集まり、そうした非現実的な女性のイメージを再生産することで、女性だけの世界で「美人画」を楽しんだ。それは男性たちが支配する現実社会から切り離された閉じた世界であった。しかしそうした女性たちによるシスターフッド的な連携が女性画家たちの生活や研究を支えたのであえる。
児島 薫
東京生まれ。実践女子大学教授(美術史)。1985年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。1987年から1993年まで東京都近代美術館学芸員助手。2007年、ロンドン芸術大学で博士号を取得。著書に『女性像が映す日本: 合わせ鏡の中の自画像』(東京:ブリュッケ、2019年)。その他の著書に「The Changing Representation of Women in Modern Japanese Paintings」(『 Refracted Modernity: Visual Culture and Identity in Colonial Taiwan』111-132頁所収、菊池裕子編、ホノルル:ハワイ大学出版局)、 「The Woman in Kimono: An Ambivalent Image of Modern Japanese Identity」(『実践女子大学美學美術史學』No. 25 [2011年3月]1-15頁所収)、「近代化のための女性表象ー『モデル』としての身体」( 『アジアの女性身体はいかに描かれたか 視覚表象と戦争の記憶』北原恵編、東京:青弓社、2013年)、「Pictures of Beautiful Women: A Modern Japanese Genre and its Counterparts in Europe, China, Korea and Vietnam」(『Review of Japanese Culture and Society 26(2014年)50–64頁所収』、「女性像が示す近代、大衆、ニッポン 」(『モダン美人誕生 岡田三郎助と近代のよそおい』6-11頁所収、 箱根:ポーラ美術館、2018年 )など。