日本人パフォーミング・アーティスト、アクティビスト
イトー・ターリ(伊藤美和子)は、パフォーマンス・アーティストのパイオニアであり、アクティビストである。1996年、パフォーマンス《自画像》のなかで、レズビアンであることをカミングアウトし、社会と自身に起こっている切実な状況を、からだと言葉で形にし、生涯、新しい表現に挑み続けた。
1969年、ベトナム反戦や学生運動など社会変革の嵐が吹き荒れる時代、和光大学芸術学科に入学したイトー・ターリは、絵画ではなく身体が介入する表現に惹かれ、パントマイムを学び始めた。自分の表現を求めて試行錯誤を続ける彼女にとって画期となったのは、1982年から4年間滞在したオランダでの経験である。ハリーナ・ヴィッテック(1948–2019年)が運営するヘットクラインシアター(アイントホーフェン)で新しい表現方法に触れた彼女は、自作の《Timing》(1983年)を成功させ、オランダで活動を続けた。
日本に戻ったイトー・ターリは、パフォーマンスで行為することを重視し、素肌にラテックス・ゴム製の衣装を直接纏うようになった。内と外の境界である表皮にこだわることによって、世界と繋がろうとしたのである。その後も、カナダ横断9都市ツアーや、インドネシアやタイ、香港、韓国などのアジア各地、欧米での公演を重ねた。
一方、イトー・ターリは、人々が交わる場を次々と創り出した。1994年には、フェミニストの美術系ネットワーク「WAN: Women’s Art Network」(1994–2003年)を東京で結成し、2001年、展覧会「Women Breaking Boundaries」を開催した。フェミニズムの視点に基づき、アーティスト自身が運営した同展では、39組が作品を発表。「Womanifest」(タイ)のプロジェクトを通してすでに交流のあったアマンダ・ヘン(シンガポール)や、アラフマヤーニ(インドネシア)らのアーティストをアジア諸地域から招待し、リム・デズリが映像に記録した。
すでにレズビアンであることを公表していたイトー・ターリは、《わたしを生きること》(1998年)で、ラテックスゴムで作ったヴァギナを被って踊り、セクシュアリティを謳歌した。2003年、パフォーマンス・アートとフェミニズムが交差する空間「PA/FSPACE」を開設し、PAF NightやPafschoolなど多様なイベントを開いて、レズビアンやアーティスト、アクティヴィストたちを繋いでいく。そして彼女は、玉ねぎを剥き続けるパフォーマンスで日本軍「慰安婦」の無念さに共感し、性暴力、沖縄の米軍基地、放射能汚染など、常に社会から見えなくされている問題に応答しようとした。
60歳でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症したイトー・ターリは、徐々にからだが動かなくなった。すると、今度は福祉行政の理不尽さに声を挙げ、活動を続けた。2019年東京&カナダ、21年東京で上演した「37兆個が眠りに就くまえに」(37兆個は身体の細胞の数)が、最後の作品となった。
著書に『MOVE: Ito Tari’sPerformance Art』(日英語、インパクト出版会、2012年)。作品はIPAMIA(パフォーマンス映像アーカイブ)で見ることができる。
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