日本人洋画家
三岸節子は、日本の近代洋画を代表する画家であり、女性画家としても先駆的な存在であった。20歳で画壇にデビューし、94歳で没するまでの70余年という長きにわたる画歴をもつ。洋画家の岡田三郎助(1869–1939年)に師事したのち、女子美術学校(現在の女子美術大学)に学んだ。在学中に、若き画家三岸好太郎(1903–1934年)と出会い、節子は、師のアカデミックな作風よりも、好太郎の在野精神に惹かれるようになる。卒業後に結婚して1934年に好太郎が急逝するまで続いた10年ほどの結婚生活の間に、3人の子供が生まれた。その間、節子は貧しい暮らしの中、子供たちや義理の家族の世話に追われながらも、作品の制作を続けている。最初の子供を身籠った1925年には《自画像》をはじめとする数点を春陽会(1922年に創立された公募展)に出品して初入選を果たした。
好太郎亡き後、節子の個性が徐々にその画面に現れるようになり、アンリ・マティス(1869–1954年)やピエール・ボナール(1867–1947年)の影響がうかがわれる、鮮やかで繊細な色彩の室内画や静物画が多く制作された。戦中も節子は室内風景に没頭し、終戦直後の1945年9月、奇跡的に焼け残った銀座の日動画廊で戦後の日本における初の個展を開いている。その後、日本で初めて女性の参政権が行使された1946年には、無審査、アンデパンダン形式の女流画家協会を設立し、壺井栄(1899–1967年)や林芙美子(1903–1951年)といった作家とも親交も結んだ。
また、終戦直後、フランス大使館で目にしたボナールの画集の色彩に衝撃を受け、そこに「内的生命の感触」を見出した節子の絵画は、それまでの装飾的な色と線のアラベスクから、より現実に根ざした、物それぞれの内から生まれる生命を捉えようとする作風へと変化する。さらに、二人目の伴侶となった画家の菅野圭介との出会いを経て、節子の作品は抒情的な画風から、単純簡潔な構成とフォルムへと向かう。色彩も、赤や黄の暖色系から、茶や黒、白、灰色を主体とした抑制されたものが多く使われるようになった。このスタイルにより、節子は高い評価を確立。1950年には《静物(金魚)》が文部省買い上げとなり、1951年には第1回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として選ばれ、1952年にはパリのサロン・ド・メや、ピッツバーグの第18回国際美術展に参加するなど、世界に活躍の場を広げた。
しかし、節子はそこで満足することなく、1954年には初めてフランスを訪れ、以降、日本人として近代絵画に向き合う必要性を自覚する。その後、軽井沢の山荘、海を望む神奈川県大磯町の山荘、南仏の町カーニュ、ブルゴーニュの小村ヴェロン、そして再び大磯と住まいを移しながら、それぞれの地を風景や室内を、原色の色彩と黒々とした線による、野生味の増した表現で描き出していった。それは画壇や美術の潮流からは離れた、孤独な探求の道であったと言えるだろう。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム