日本人洋画家
丸木俊(1956年まで赤松俊子名で活動)は、夫の丸木位里(1901–1995年)とともに制作した「原爆の図」で知られる。 1912年に北海道の開拓の村に生まれた俊は、女子美術専門学校師範科で西洋画を学んだのち、千葉県市川市立尋常高等小学校で代用教員として働く。熱心に教育に取り組みながら、文展や二科展に応募するも落選。その後、縁あって20代後半に特異な海外体験を重ねることになる。
最初の渡航は、1937年の春から1年間、外交官の子女の家庭教師としてモスクワに滞在した。スターリンの大粛清の時期と重なっていたが、そうした現実からは隔絶された、澄んだ川や白樺林に囲まれた穏やかな暮らしの中で、1日1枚のスケッチを欠かさなかった。帰国後、銀座の紀伊国屋ギャラリーで初個展を開き、1939年の二科展に初入選を果たした。
二度目の渡航は1940年1月、日本統治下で南洋群島と呼ばれたミクロネシアのパラオ諸島に単身渡り数ヶ月を過ごしている。この年は、日本の国策としての「南進」に伴う経済的繁栄を背景にした「南洋」ブームの最後のピークであり、すでにこの地にあった彫刻家で民俗学者でもある土方久巧(1900–1977年)の知己を得て、島々を旅して廻った。熱帯の自然と珊瑚礁の海、島の人々の暮らしからインスピレーションを得て、大胆な線や色彩による油彩画を制作した。帰国後、広島出身の画家丸木位里と出会い、結婚。新生活を始めるも、まもなく太平洋戦争が勃発する。
1945年8月、「新型爆弾投下」の報を受けて位里が故郷広島に向かい、数日後に俊も合流。想像を絶する地獄の光景を目の当たりにする。1ヶ月ほど救援活動に従事し、その後何年間も体の不調に悩まされた。9月に帰京すると、2人は日本共産党に入党し(1964年に除名)、戦後の美術界再編に関わりながら、それぞれ作品を発表した。俊は、絵本の原画や新聞雑誌の挿絵、本の装丁、文筆活動など、広く才能を発揮した。日本で女性が男性と同じ権利を獲得した新憲法が施行された1947年には、《解放されゆく人間性》と題された力作を残している。
1948年、俊の病状の悪化もあり、夫妻は転地療養を兼ねて湘南に転居。東京での活動から離れたことで、原爆の記憶に向き合うようになり、1950年から「原爆の図」に取り組み始める。直接の体験者ではない2人は、家族の証言や知人の体験談、写真や小説をもとに構想を練り上げた。「原爆の図」シリーズの制作は1970年代まで続き、1950年代から70年代にかけては日本全国のみならず海外でも発表され、公開を禁じられた写真や映像に代わって、被害の実態を伝えるメディアとして機能した。また、その後も2人は南京大虐殺やアウシュビッツ、水俣、沖縄戦と、人々に加えられた暴力の諸相を倦むことなく大画面に描き続けた。他方、俊は絵本の世界を深め、位里の死後は、世を去る直前まで愛らしい人形や花の絵を描いて過ごした。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム