日本人マルチメディア・アーティスト、パフォーマー
久保田成子は、東京教育大学(現筑波大学)教育学部芸術学科の彫塑専攻で学んだ後、教員となり、1960年代の東京の前衛シーンで著名なマルチメディア・アーティストとなる。第二次世界対戦が終わり、日本は孤立した芸術表現から脱出する。すでにニューヨークで傑出した作家であったオノ・ヨーコ(1933年–)は、東京への短期間の往来の際に、フルクサスやその他のアメリカの前衛芸術表現を自国に紹介していた。その中には、長きにわたって久保田に影響を与えたジョン・ケージ(1912–1992年)が1962年に行ったパフォーマンスも含まれていた。そうして、具体美術協会や時間派といった日本の前衛芸術表現の動きが生まれた。久保田が参加していたグループ・音楽は、当時の傾向を混ぜ合わせたパフォーマンス、音楽、造形芸術に特化した集団であった。オノ・ヨーコと東京に滞在していた韓国人作家のナム・ジュン・パイク(1932–2006年)に影響を受け、グループ・音楽は、フルクサスの創始者であるジョージ・マチューナス(1931–1978年)にハプニングの提案を送り、ニューヨークに招待される。1963年、東京の内科画廊で初めての個展が開催されるが、展評が出されることはなかった。日本で実験的な女性作家の企画は将来性がないと気づいた久保田は、1964年、ニューヨークに発ち、ジョージ・マチューナスや、後々一緒に仕事をし、アンソロジー・フィルム・アーカイブスの創立者の一人でディレクターとなる映画監督のジョナス・メカス(1922–2019年)など、フルクサスの最も重要な信奉者たちと接触した。
ナプキンに顔の一部が描かれており、フルクサスの晩餐で使われていた《フルックス・ナプキン》(1965年)、病気がちだったジョージ・マチューナスのために考案された《フルックス・メディシン》(1966年)、さらには「夏の永続的なフルックス・フェスト」で披露された《ヴァギナ・ペインティング》(1965年)である。本作は、股の間に太い筆を固定し、舞台の白い紙に赤いストロークを描くパフォーマンスだ。アメリカに来て初めての誕生日だったこの日、久保田は、他の日本人作家から一線を画した自立した女性作家であることを立証した。しかしながら、久保田が芸術家としての独自の歩みを踏み出したのは1960年代後半である。その要因の一つは、久保田がいち早く手に入れた最初のビデオカメラであるソニーのポータパックの登場、他方では、マルセル・デュシャン(1887–1968年)との遅い出会いがある。作家の初めてのヴィデオ作品《ヴィデオ・チェス》は、ダダの偉大な作家へのオマージュとして、ノルマンディー地方のデュシャンの墓所で撮影された。この「ヴィデオ彫刻」と名付けられる作品群、特にニューヨーク近代美術館の最初の映像所蔵作品となる《階段を降りる裸体》(1976年)などの制作にインスピレーションを与えたのが、他ならぬナム・ジュン・パイクである。パイクは、公私ともに久保田と親密になり、二人は1977年に結婚する。個を尊重し、模範的で平等に協働し、それぞれがお互いのプロジェクトに参加する関係性は、ニキ・ド・サンファル(1930–2002年)とジャン・ティンゲリー(1925–1991年)を除き、非常に稀だろう。この例外的な経験に基づいたいくつかの作品と展覧会が「ナムジュン・パイクとの私の人生」(2007年)だ。1980年から90年代まで、自然とテクノロジーの繋がりが久保田のヴィデオ彫刻の回帰的な主題であったと同時に、女性に与えられた条件と女性作家の地位確立の目的は、久保田の仕事の原動力であり続けた。《ジョギング・レディー》(1993年)は、女性の働きを肯定するかのように、その身体運動能力への賞賛を表している。画面に映る複数のランナーの姿は、女性の身体を表現した金属の彫刻に反射している。久保田は、草間彌生(1929年–)、オノ・ヨーコ、斉藤陽子(1929年–)、塩見允枝子(1938年–)、田中敦子(1932年–)らのように、1960-70年代の芸術と音楽の関係と同じく、インスタレーション、パフォーマンス、ヴィデオの関係を根本的に覆した日本人作家たちと一時代を築いた。久保田はアメリカの美術館の収蔵品の代表的な作家となり、様々な賞や賞金を受賞し、いくつもの回顧展が開かれた。