日本人水彩画家、画家、版画家
芸術家の家に生まれた吉田ふじをは、8歳から12歳の間の若年期から表現活動を始めたと複数の資料に残されている。1899年から、東京の画塾・不同舎に入門し、義兄であり後の夫となる吉田博(1876–1950年)の庇護を受けた。当時は、女性が美術教育を受けられる機会が非常に限られていた上に、通常は日本画のように伝統的な形式が奨励されていたが、吉田は西洋的な技法を用いる洋画教育を受けた珍しい女性の一人だ。1903年の博とのアメリカへの旅行の際に当地で初めて作品が紹介され、桜の花や蓮といったニッポン的な美を表すモチーフが散りばめられた絵画の繊細さが批評家の注目を集めた。当時の若い女性においては非常に稀なことに、購入にいたるほどであった。
《桜の門前》(1903年頃)といった若年期の作品の多くは、吉田が好んだメディウムの水彩画で描かれた写実的な風景画である。その様式や主題は博のものと類似性が確認できる。
1907年に帰国後、第一回文展に入選を果たし、1910年の第4回文展では《神の森》(1910年)で褒状を受ける。
1920年から吉田は、《Sweet Peas in Vase》(1930年頃)のように、好んでいた花のモチーフを用いて静物画に取り組むようになる。版画技法を獲得し、《ばら》(1927年)のようにいくつかの版画を製作した。この頃から、朱葉会の主要メンバーの一人となり、博の庇護下から出て活動をするようになる。
芳醇な官能性を付与された吉田の油彩画には、制作前期の静物画に、有機的な抽象性と様式化を目指す作家の意思が表れるまでの見事な変遷が表現されている。さらに、《みょうが》(1953年)《黄色のアイリス》(1954年)といった驚くべき木版画のシリーズから出発後、30年ほど中断していた版画制作を再開し、版画家として返り咲いている。
1930年から1940年代は、西洋的な美意識と日本画の伝統的な要素を混在させた保守的な様式を維持していたが、1940年後半に、大胆な作品を作り始める。
油彩画での制作のためしばしの間水彩画での制作を中断し、《Flower Iris》(1949年)《White Flower》(1953年)のように、強固なフレーミングと非常に鮮明な色調を用いて、秘められた花の構造を明かすような描写に注力した。吉田の親族が直接的な影響を否定しているとしても、これらの絵画はしばしばアメリカの画家・ジョージア・オキーフ(1887–1986年)の作品、1920年代から制作された巨大なキャンバスの花々の作品との類似している。
1970年代には、抽象への探究を続けながら、好みの媒体を再び使用するようになり、形式への問いよりも、色彩、光彩、質感を捉える方法への関心をいっそう深めていったことが、《Flower》(1973年)から推察できる。
1978年、吉田は20世紀の日本人の女性芸術家の人生を記した貴重な手記『朱葉の記』を出版した。