日本人陶芸家
坪井明日香は1932年に大阪に生まれる。東京で少女時代を過ごし、美術教育に力を入れていた自由学園で彫刻家、清水多嘉示(1897–1981年)らに学ぶ。1953年、陶芸家を志すために京都へ移り、泉涌寺の釉彩工芸へ入る。1954年より富本憲吉(1886–1963年)に師事。富本が主宰する新匠会(現在は新匠工芸会)に出品。1976年、同退会。女性の陶芸家が少なかった時代、当初富本はアクセサリーなどの小物の制作をすすめたが、後に彼は考えを変え、彼女に土練りから轆轤形成、焼成、絵付けまで一通りの技術を学ぶようにすすめた。
日本の伝統工芸であるやきものは、その保守的なしきたりとともにあった。1950年代、京都の共同登り窯では、穢れているとされる女性は火が入った窯に近づくことが許されなかった。こうした状況の中、1957年、坪井は当時非常に稀有な存在であった女性陶芸家達との繋がりを求めて「女流陶芸」を結成する。設立当時のメンバーは7名であった。グループは1959年に第一回展を開催し、1967年からは公募展として全国の女性陶芸家からの応募を募るなど、団体として大きく成長。坪井は現在まで代表として組織の発展に尽力してきた。
1966年、訪中日本京都工芸美術家代表団の一員として文化革命さなかの中国に50日間滞在する。同国の陶磁器を見て回った坪井は、自身の時代と土地に基づいた表現を模索するようになる。この経験の後、当初、皿や茶碗など生活工芸品を制作してきた坪井は、前衛陶芸への関心を高め、センシュアルな暗示及び明示に富む作品を制作。1970年京都・東京国立近代美術館で開催された「現代の陶芸—ヨーロッパと日本」展に作品《ふろしき》を出品。軽くしなやかな布をやきもので表現し、それが女性の身体を覆うかのような造形がエロチックであったという。翌年、「現代の陶芸—アメリカ・カナダ・メキシコと日本」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)に出品された《笛師の戯れ》(1971年)は、立方体や円柱の厳格な形態が、植物のようであり女性器のようでもある有機的な形態と合わさり、相反する二つが官能的な緊張感を醸し出す。1973年、「現代工芸の鳥瞰展」(京都国立近代美術館)に《脱げたカップ》(1970年)《歓楽の木の実》(1973年)《禁断の木の実》(1973年)を出品。女性の乳房をモチーフに金銀釉を大胆に施した作品は、当時の陶芸界に衝撃を与えた。以後、乳房や唇といった官能的な身体モチーフが作品に登場する。他方、京都の空気を吸い作陶をしてきた坪井は、京焼と自身の作品の関係性を自覚する。「地図皿」「唐織袋」シリーズにみられるように、布、紙、葉といった薄く儚い素材の触感的でだまし絵的な表現は、京都のやきものの優雅な装飾性と遊戯的な感覚にあふれている。
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