日本人現代美術作家
京都精華大学芸術学部洋画専攻を卒業。在学中の1994年にオーストラリア国立大学美術学部に留学し、絵画から発展したパフォーマンスやインスタレーションを始める。1996年に渡独。ハンブルグ美術大学を経て、ブラウンシュバイク美術大学でマリーナ・アブラモヴィッチ(1946年–)に師事。さらにベルリン芸術大学でレベッカ・ホルン(1944–2024年)に師事した。以降、ベルリンを拠点に国際的に活躍している。2015年には第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館代表となり、2隻の舟と18万個の鍵を赤い糸で繋いだ《掌の鍵》によって、塩田千春は「糸を使ったインスタレーションの作家」として世界に印象づけられた。さらに2019年に森美術館で始まった個展「塩田千春展:魂がふるえる」は2025年までに世界各国7館の美術館に巡回し、塩田の多彩な表現についての評価を国際的に定着させたといえるだろう。2008年には藝術選奨文部科学大臣新人賞、2020年には第61回毎日芸術賞受賞。
アーティストになることを意識したのは12歳。魚箱製造会社を経営する家業のなかで、物質的な充足ではなく精神性を求めたという。学生時代から、生きること、死ぬこと、存在の意味など、根源的な概念を問い、灰、へその緒といった素材を用いて生命とその循環を表現する展示も行った。19歳のときに滋賀県立近代美術館で「マグダレーナ・アバカノヴィッチ展」を見て、強烈なエネルギーや生命力に衝撃を受け、海外で学ぶことを決意する。「不在のなかの存在」は今日まで一貫して彼女が掘り下げるテーマとなった。
初期には《絵になること》(1994年)、《トライ・アンド・ゴー・ホーム》(1997年)、《バスルーム》(1999年)など、自身の身体を使ってその存在を問うようなパフォーマンスを行った。並行して、身体の不在を通して存在の意味を問う《アフター・ザット》(1996年)など巨大なドレスを吊したインスタレーションも見られるようになる。塩田が最初に参加した大規模な国際展「第1回横浜トリエンナーレ」では、泥で染まった長さ13メートルのドレスを高い天井から吊るし、そこに水が降り注ぎ続けるインスタレーションで鮮烈なデビューを飾った。ドレスは「第二の皮膚」として、その後も塩田の主要なモチーフのひとつであり続けている。多国籍、多文化のドイツで自身のアイデンティティを問わざるを得なかったこと、1997年以降拠点にするベルリンの政治的・社会的な歴史を肌で感じたことも、塩田の実践に重要な意味をもたらしたと言える。
塩田の代名詞にもなった糸のインスタレーションは、自らの寝室に糸を張り巡らせ始めたところから、1999年にベッドのインスタレーションに繋がった。「ベッド」は、毎日の終わりに眠りにつく場でもあり、夢を見る場、覚醒する場でもある。また母親の胎内からこの世に生を得る場でもあり、臨終の床にもなり得る。現実と夢の世界、現世と来世を繋ぐ両義的な空間が、「不在のなかの存在」を浮き彫りにした。一方、さまざまな地域の空間のスケール感や歴史に応答する糸のインスタレーションは、壮大な宇宙空間、想像上の世界と塩田自身の身体を繋ぐ世界観の表象でもある。黒い糸は漆黒の空間を創り出し、夢の世界から宇宙の深淵にある暗闇へとわれわれを誘う。赤い糸は、血液、血管という身体内を循環する小宇宙の象徴であり、また人間相互の不可視の繋がりや縁を可視化する文字通り、赤い糸でもある。
塩田がアーティストとしての実践を蓄積することと並行し、自身が経験してきた出産、流産、家族の死、癌とその再発といった出来事は、根源的なテーマを扱う彼女の作品に鋭敏な感覚や強度を与えてきた。「不在のなかの存在」を問い続けながら、身体や魂の奥底から生まれる創造のためのエネルギーによって、塩田は今後も突き動かされていくことだろう。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム