日本人画家、ビジュアル・アーティスト
富山妙子は、近代的で文化的な家庭に誕生した。1933年、父親の仕事の都合で一家は中国へ渡り、当時満州の一部であった大連とハルビンの街で育つ。1938年には東京の女子美術専門学校(現女子美術大学)へ入学するため日本へ帰国するが、旧態依然とした教育方法に失望して中退。様々な土地で生活し多くの異文化の人々と出会った富山は、日本の差別を実感し、日本の帝国主義や軍国主義への同化に抗う要因となった。 日本の帝国主義による植民地支配と戦争を経験した少女時代を記憶しており、社会問題に焦点を当て、前衛的な作品で芸術社会を変革しようと決意した。
第二次世界大戦での日本敗戦後、富山はイラストやルポタージュの出版で生計を立てた。また、1970年代半ばまで、自由美術協会や日本美術協会などの著名なグループ展に出展。1950年代には、制定されたばかりの日本のエネルギー政策がもたらした苦難から労働・文化運動が勃興していた炭鉱村群を訪れた。《日立鉱山》(1952年)など、炭鉱を描いた作品を発表し続けた。その後、多くの鉱山労働者がしたように一年間ラテンアメリカを旅し、南北格差、不平等、人種差別、西欧の帝国主義について学んだ。それはまた、富山に西洋中心の日本の美術界の問題点を自覚させた。1960年代に帰国すると、反ベトナム戦争の市民運動に参加し、韓国の政治状況を知る。富山は、朝鮮半島分断の背景にある日本の植民地主義に深井責任を感じていた。1970年代には韓国で政治犯となっていた金芝河(1941–2022年)の詩をもとにしたリトグラフを制作し、政治犯や韓国軍政府にスパイの濡れ衣を着せられた人々に対する国際社会の意識向上に貢献した(参照写真:1975年、新宿で拷問反対キャンペーンを行う富山)。富山が美術を専門とする団体を離れ、市民運動の場での展示や異なるジャンルのアーティストとの協働を始めたのはこの頃だった。
1970年代から1980年代初頭にかけては油彩画からリトグラフへ移行し、詩人・金芝河の《しばられた手の祈り》に触発された《Ballad for Victor Jara’s Broken Hands 2》(1973年)など、スライド、詩、絵画、レコードの制作に注力した。制作に時間が掛からず、持ち運びや隠すこと、輸送が容易なこれらの作品は、韓国、タイ、フィリピンなどアジアの民主化運動の現場に届けられた。例えば、1980年5月の光州蜂起の際、富山はいち早く反応し、自身の版画をスライドにし、光州連隊運動で国内外に公開した(《光州へのレクイエム II》(1980年))。1980年代半ば以降、富山は歴史修正主義に関心を寄せ、《南太平洋の海底で》(1985年)や《ガルンガンの祭の夜》(1986年)では日本軍による性奴隷制(いわゆる「慰安婦」)を、《地の底の恨》(1984年)では強制連行された朝鮮人炭鉱夫の死を描いている。また、経済一辺倒の日本社会、タイや満州からの移民労働者を描いた作品(《きつね物語・桜と菊の幻影に》[1998年]、《祝 出征》[1994年])もある。そして、《クライシス―海と空への祈り》(2012年)のような2010年代の現代的な社会問題に焦点を当てた油彩画も制作した。2021年6月には、韓国の民主化運動への支援と促進への貢献が認められ、韓国政府から国民勲章を授与された。
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