日本人日本画家
小倉遊亀は2000年に105歳で亡くなるまで、旺盛な制作活動を続けた日本画家である。小倉と同世代の女性画家たちの多くが、家庭との両立に苦しみ画業をあきらめたなかで、彼女は1980年に女性画家として二人目となる文化勲章を受章したことが示すように、国内で確固たる評価と地位を築いた稀有な存在であった。
小倉は1917年に奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)を優秀な成績で卒業し、教師として身を立てた。絵は在学中に授業を受けただけで、独学の末に1920年に日本画家の安田靫彦(1884–1978年)に師事した。その後、安田が所属した日本美術院の公募展にチャレンジし、1926年に31歳で同展に初入選、1932年に37歳で女性として初めて同院のメンバーに選ばれた。
日本美術院は1898年に日本画や彫刻を研究する大学院のような組織として創設された在野の美術団体である。1914年に再興されてからは、メンバーの自由な制作と、東洋美術の伝統性を尊重することを表明し、多くの若い画家たちを育てた。小倉はメンバーとしての重圧と、教職との両立、加えて病気の実母の世話に苦しんだが、禅の修養が人間としての成長をもたらしたという。1938年には禅の師で30歳年上の小倉鉄樹(1865–1944年)と結婚し、実母と夫の世話に明け暮れながら、人一倍努力して制作を続けた。
小倉は画業の師である安田から、対象から得たリアリティを逃さないことと、これまで積み上げたスタイルにとらわれないことを指導され、それが生涯の指針になったと回想している。その教えを胸に、小倉は身近な事物に眼を向け、対象の内にある生命と、感興の要所をとらえた制作を目指した。初期の代表的な作品に、入浴する女性を主題に、水中の人体やタイルの線を大胆に歪めて水のゆらぎを表現した《浴女 その一》(1938年)がある。入浴図に期待される情緒を排除し、形態の面白さを追求したこの作品は、小倉の造形への興味を明確に示している。翌年の《浴女 その二》(1939年)では、脱衣所での女性のまちまちな動作と、敷物の規則的な柄とを対比して思わぬ視覚効果を生じさせている。
1945年の敗戦を経て、1950年代にヨーロッパの芸術が国内に紹介されるようになると、小倉はそれらの造形手法にも学び、日本画に取り入れた。《コーちゃんの休日》(1960年)は、鮮やかな赤い背景と、敷物と着物の模様を取り合わせた感覚にアンリ・マティス(1869–1954年)との類似が見出せる。また《母子》(1961年)は、重量感のある人体とデフォルメがパブロ・ピカソ( 1881–1973年)に通じる。単なる模倣に終わらせず、日本画の装飾性を融合させたこの時期の作風は、日本画にあって知的かつ現代的で、小倉はこの頃から受賞歴を重ねていくことになった。
70歳を超えると、小倉の作風は再び変容を見せた。構図に意を凝らすものの、より簡潔で平明な描写となり、「明るく、温かく、たのしいもの」(作者の言葉)を表して多くの人の共感を集めた。親子と犬が連れ立って歩く《径》(1966年)は今でも老若男女の心をなごませる人気の作品である。この作品は釈迦に仕える僧侶のひたむきな心もちから着想したものであったが、それをかように表現するのが円熟期の小倉の真骨頂である。また、晩年まで繰り返し描いた静物画の魅力も忘れがたく、師である安田は小倉が住んだ北鎌倉にちなんで、それらを「北鎌倉の特産品」と呼んだ。
小倉は1976年には日本芸術院会員となり、長らく活動の舞台であった日本美術院では1990年から1996年まで理事長を務めた。著書に『画室の中から』(中央公論美術出版、1979年)、『画室のうちそと』(読売新聞社、1984年)がある。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム