日本人美術家
第二次世界大戦終戦直前に小林聖心女子学院英語専修科を卒業した山崎つる子は、1947年に芦屋市主催の美術講習会に参加し、講師の一人であった吉原治良(1905–1972年)に初めて出会った。当時はまだ山崎自身が知らなかった抽象絵画についての吉原の講話と人柄に魅かれ、やがて個人的に吉原のアトリエで指導を受けるようになる。吉原への師事は、後の具体美術協会メンバーの中では嶋本昭三(1928–2013年)に次いで早かった。1954年、吉原の周囲に助言を求めて集まっていた若い画家たちと共に機関誌を刊行することになり、それを機にグループ名が具体美術協会(略称:具体)と決定され、翌年の第1回具体美術展から1968年の第21回具体美術展まで連続出品、またその他の具体主催の展覧会にはすべて出品した。
具体結成の1954年から1957年までは、ブリキや鏡を主要素材に選び、それら特有のきらきらとした質感や光沢、反射を生かした作品を手掛けた。彩色はいずれも、染料を入れたクリヤーラッカーとシンナーを用いており、金属の表面の光沢を妨げない点が特徴的である。その他、ブリキを折り曲げる、鏡やセロファンを加え、舞台用の照明を当てるなど、いずれの場合も光の輝きを最大限多様化する工夫が凝らされた。
1957年のミシェル・タピエ(1909–1987年)との出会いにより、他の具体メンバーと同じく素材を変化させ、耐久性の面で課題があった金属板と染料を、綿布と塗料に置き換えた。1958年以後は主にタブロー制作に取り組み、1960年代を通して、漫画の吹き出しに似た形や、殴り書きのようなタッチの集積を、明快な輪郭線による幾何学的形態と並置、しかも心地よい自然な組み合わせをあえて避けた彩色により、様々な要素が互いにぶつかり合いながら共存する作品を発表した。タピエはこの容態を「コンフュジオン(confusion)」と評したが、その一連のタブローは、徹底して「意外性」を求める点で、それ以前の金属および鏡による作品群、すなわち展示場所や照明によって様相を大きく変え、光の偶然の効果を積極的に取り込んだ作品群と通底する。
1972年の吉原の急逝による具体解散の後は、1976年に作風を一変させ、パチンコやスーパーボール、動物などをモチーフにした一見具象的な《TITLE》という名の作品群を発表した。そのあまりの唐突さにより、当時の作品は嶋本以外からは理解を得られなかったというが、この大胆な転換もまた、野放図な「意外性」を求める山崎ならではの技である。2000年代には、具体初期に手掛けていた染料入りのクリヤーラッカーとシンナーをブリキ板に流す作品に再び取り組み、きらめく質感を終生追い求めた。
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