日本人美術家
精神病理学者で名古屋市立医科大学教授を務めた父、岸本鎌一と、母の夏子の二女として愛知県名古屋市に生まれた。1960年代に前衛的な活動で注目され、約10年間の休止期間を経て1980年代に制作を再開。絵画制作、パフォーマンス、文章表現が三位一体となった独自の活動を展開した。
幼少時から千原謙吉(1904–1998年)、藪野正雄(1907–1990年)の絵画教室に通うが、1955年に愛知県立旭丘高等学校美術科に入学して以降に本格的な技術を習得した。この美術科で講師として教えていた日本画家の中村正義(1924–1977年)に大きな影響を受け、同校での先輩にあたる赤瀬川原平(1937–2014年)、荒川修作(1936–2010年)、岩田信市(1935–2017年)らの存在にも刺戟を受けた。
1年間の浪人を経て、1959年に多摩美術大学日本画科に入学、同大を1963年に卒業。ただし、保守的な授業に飽き足らず、もっぱらネオ・ダダイズム・オルガナイザー(ネオダダ)や読売アンデパンダン展への参加に意欲を示した。このため、しばしば「ネオダダの紅一点」として言及されるが、1960年3月から10月までしか活動しなかったグループで彼女の画業を説明するのは不十分というより、むしろ不適切だ(なお、ネオダダという紛らわしいグループ名は、ジャスパー・ジョーンズ[1930年–]やロバート・ラウシェンバーグ[1925–2008年]らの一群の作家を想起させるが、日本人美術家だけで構成された全く別のグループである)。
1964年の内科画廊での初個展を皮切りに、個展やグループ展での発表活動を精力的に行う。この頃から自作を用いて空間全体を埋め尽くす、インスタレーション的な傾向を示し始める。1970年代に入ると企画会社やシンクタンク業で収入を得ようと試みており、一時期アーティストとしての活動を休止していた。1977年の明治画廊での個展で作家活動を再開。
乳がんの手術のため1979年に故郷の名古屋に戻ると、「地獄の使者」を名乗り辻説法のようなパフォーマンスを行ったほか、美術教室を主宰し、芸術文化に関する連続シンポジウムを企画するなど多面的な活動を行った。この時期の絵画作品は巨大な絵巻のような横長のキャンバスに描かれ、時間の経過とともに誇大妄想的なストーリーが展開する。
20世紀までの権力志向に囚われた男性原理を、21世紀型の愛と自由に基づいた女性原理で上書きすることによって、戦争をはじめとする様々な問題が解決できると考えた岸本は、その主張を文章や辻説法の形で世に問うていった。こうしたフェミニズム的な思想は決して分かりやすい形ではないにせよ、人間以外の動物が主役となった晩年の彼女の大作のなかにその都度、形を変えて寓話的に表現されている。
1983年に参議院選挙に立候補し、落選。この時の政見放送は、世の中の権力志向や上昇志向を否定し、性的マイノリティの人権を尊重すべきだと主張するなど、先見性に富んだものだった。1988年に乳がんのために死去。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム