日本人画家
大阪府堺市の画工の家に生まれる。後に大阪市南区に移り、花街の風俗に触れながら育つ。絵師であった父、図案家であった兄から絵の手ほどきを受け、さらに大阪画壇の美人画家・北野恒富(1880–1947年)とも活動を供にし、影響を受ける。様々な展覧会に出品を重ねた後、1912年、20歳で文部省美術展覧会(文展)に初入選。おおいに注目を浴び、女性画家として知られる上村松園(1875–1949年)、池田蕉園(1886–1917年)とともに、「三都の三園」と称された。またこれを機に、大阪画壇では女性画家が急増した。
《祭りのよそおい》は、1913年の文展に入選した作品で、豪華な晴れ着を着る少女たちと、それを質素な装いの少女が少し離れたところから寂しげに見つめる、という場面が描かれている。貧富の差という現実と、そこから生まれる子供たちの心理をテーマとする作品であった。
1916年には、女性画家・木谷千種(1895–1947年)、岡本更園(1895–?年)、松本華羊(1893–1961年)とともに「女四人の会」を結成。第一回展を大阪で開催し、井原西鶴(1642–1693年)の浮世草子に取材した作品を四人で発表するなどして話題を呼んだ。ただしテーマが、好色、不倫、心中など反道徳的反社会的な問題に及んでおり、世間では、女性の画家がこれらを描くことに対して難色を示す動きもあった。
1920年、横浜正金銀行の職員と結婚。芸術とは没交渉の人物であったが、成園が絵を続けることには理解があった。上海、ボンベイ、大連などへの海外勤務が続いたため、成園も、大阪を離れ、これに同行。作品にもそうした異国の風俗が取り込まれることとなった。
成園は多くの女性像を描いたが、その独自性は、単に美人画ではない、女性の業を深く突き詰めたテーマに取り組んだ点にあった。
たとえば、《無題》(1918年)では、痣のある自画像を描き(本人に痣はない)、「運命と社会を呪う女性の心持」を表現。島原の遊女を題材とした《伽羅の薫》(1920年)は、老齢にさしかかった遊女をグロテスクな色彩とフォルムで描き、「傷ましい濃艶さ」を表現した。その退廃的なムードが強い印象を残したが、同時に、きわめて下品、嫌味であるなどの批判もあびた。
成園の活躍は、大阪画壇での女性画家を奮起させ、良家の夫人や令嬢が画家を目指し、展覧会に出品するというひとつのムーブメントを作り出すこととなった。門下生からも多くの女性画家が育っている。