日本人写真家
杉浦邦恵は1963年シカゴへ移住し、1967年にシカゴ美術館附属美術大学にて学士号を取得した。シカゴ美術館附属美術大学ではニューバウハウスの写真家ケネス・ジョセフソン(1932年–)に師事。芸術表現として写真を選択する人が多くなかった時代だったが、杉浦はこの技法を選び、現在まで写真を使った多面的な表現を続けている。卒業後ニューヨークへ移り、1960年代はカラー写真で実験的な作品を作り、1970年代には同年代のポップ・アートの作家と共にアクリル絵画を写真とキャンバスの上で組み合わせ、1980年代にはカメラを使わず、暗室にあった日用品と物理的に接触して作り出すフォトグラムを始めた。この過程は杉浦にとって、写真の物体性と抽象的なイメージが作品としてひとつになる独特な手法を確立させる一助となっただろう。1980年代後半、杉浦がフォトグラムに花をモチーフとして使い始めた時、常套手段や装飾的だとして批判された。しかし、杉浦自身は花を安く市場で買えることを面白く思っていた。というのも、花はポップアートのモチーフとして消費物だったのだ。同時に杉浦は、花が脆さや儚さといった日本的な美学の象徴であることに加え、雄しべと雌しべの両方を持つ生殖器と捉えた。花をフォトグラムのための物体として扱うこの手法で、杉浦は「ボタニカス」(1989年)、「カット・フラワーズ」(1990年代)、「スタックス」(1990年代)のシリーズを制作し、1997年にニューヨーク近代美術館「フォトグラフィー 13」展でリネケ・ダイクストラ(1959年–)、アン・ミー・レー(1960年–)、ヴィック・ムニーズ(1961年–)らと共に展示した。この展覧会の後、ニューヨーク近代美術館はこれらの作品を収蔵した。
活動初期の頃、彼女のロフトがレッドストッキングスという極めて過激なフェミニスト集団の活動拠点となっていたにもかかわらず、杉浦はアートを自身の政治的メッセージの道具としては考えていなかった。レッドストッキングスはエレン・ウィリス(1941–2006年)、シュラミス・ファイアストーン(1945–2012年)によって1969年に設立された。杉浦は、直接政治的メッセージを作品に組み込むよりも、自身の感性や記憶を扱うことで人種差別や性差別のない社会につながるのではないかと考えていた。前時代的に聞こえるかもしれないが、1960年代、杉浦の「孤」シリーズはポスト・ヒューマニストやサイボーグフェミニズム的観点を持つダナ・ハラウェイ(1944年–)と共鳴した。このシリーズでは、人間の身体(多くの場合は女性の身体)が木や花、豆、種、そして植物の細胞のように描かれた。変形した身体は客体化されず、代わりに写真にある微かな赤色を通じて、身体自体の有機的なエネルギーと世界との関係を示すことを目指して作られた。人間の身体の構造と自然の交わりという杉浦の関心は、「Artists / Scientists / Boxing Papers and Intimate」(1999年–)シリーズや「DG Photocanvas」(2015年–)シリーズといったより最近の作品にも見られる。
2019年、大規模な個展「杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年」が東京都写真美術館開かれた。また杉浦は、2007年に第23回東川賞国内作家賞を受賞している。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム