日本人画家
梶原緋佐子は、京都の町中で造り酒屋を営む裕福な家に生まれた。女学校の図画教師であり、梶原の画才を見出していた日本画家、千種掃雲(1873–1944年)の紹介により、美人画家として名高い菊池契月(1879–1955年)に入門、画家になる道を歩むこととなる。千種は、竹内栖鳳(1864–1942年)門下でありながら洋画研究所で学んだデッサンの腕を生かし、従来の日本画家がモティーフとしなかった労働者や裸体像を日本画材によって写実的に描いて近代京都画壇に一石を投じた画家であった。梶原は、文学者に憧れる一方で、千種から、人形のような美人ではなく、本当に生きている血の通った女性を描くよう指導され、文学作品の中で読み、また周囲で見聞きした女性たちの生活を描きたいという気持も持っていた。
1918年、国画創作協会という、官展とは異なる日本画の公募美術団体が京都に発足する。創作の自由、個性の尊重、自然への愛を謳う同展は、官展に飽き足らない若手作家達を大いに鼓舞した。梶原もその一人で、第1回展に《暮れゆく停留所》(1918年、京都市美術館所蔵)を出品している。仕事帰り、疲れ果てた様子で駅のベンチに座る、遊郭街で季節仲居として働く女性を描いた本作品は、新しい女性像として評価され、入選9点の厳選の中、選外ながら優秀な作品であるとして展示された。翌年は、同展に出品する一方で、官展にも、大きな口を開け、歯を見せて歌う女性を2メートル超の画面いっぱいに描いた《唄へる女》(1919年、京都国立近代美術館所蔵)を出品。残念ながらどちらも落選するが、その次の年は両方へ出品し、官展で初入選を果たす。これを機に国画創作協会への出品は途絶えるが、官展初入選作も身近な働く中年女性をモティーフとしており、その後も働く女性としての共感を持って、曲芸師の少女、年老いた芸妓、地方芸者、娘義太夫、矢場女のペーソスを美化することなく描き、官展に出品している。彼女たちの生活を物語る雑多なものが置かれた暗い背景に、その人生と同じように地味な色使いと、濃い陰影で描かれる、しっかりとした肉体を持つ女性像は日本画界には特異なものであったが、大正という時代とマッチし、1回落選したのみであった。
1930年、梶原は、上品な婦人が湯に手拭いを浸すところを描いた《山の湯》(所蔵先不明)を官展へ出品し、久しぶりの入選を果たす。その後しばらくは、生家が傾いたために売れる絵を描く必要があったこともあり、《いでゆの雨》(1931年、京都市美術館所蔵)のようにすっきりと整理された画面に、良家の子女風の女性や人形のような舞妓などを描いていたが、第二次世界大戦が終わり、1947年の官展で初めての特選を得、1950年委嘱出品作家となると、《花》(1951年、東京国立近代美術館所蔵)や《カメラ》(1953年、個人蔵)のような洋装、洋髪のはつらつとした若い女性を描きはじめる。1957年6月には三越で個展を開催、そこに出品された令嬢風の作品ではなく、日焼けした働く女性や生活感のある女性を描いた作品が梶原らしいと好評を得、同年10月の官展には、海女を描いて出品。また、京都のクラブのマダムや芸妓を描くことが多くなる。その仕事場での様子だけでなく、普段の様子を描いたり、《夕立》(1967年、東京都現代美術館所蔵)のように、彼女達をモデルとして、過去に鄙びた花街で取材した題材を現代にアレンジして描いたりしている。彼女と同じ時代に己の手で日々の糧を得て生きる女性の静かな意気地への共感を昇華させた、血の通った女性像を追求し続け、1988年91歳で亡くなる。1968年には官展の評議員、1974年からは同参与となり、1976年には京都市文功労者として表彰された。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム