日本人美術家
田中敦子は、日本の前衛運動である具体美術協会の1950年代から1960年代の代表的な作家の一人。田中の制作活動は、1954年頃に紙にインクで書いた数字をコラージュしたことに始まる。1955年、協会の指導者である吉原治良(1905–1972年)の誘いによって具体に参加する。新たな支持体と素材を使用する抽象画家の集まりとされるこの美術協会で、田中もすぐさま新たな技法を開拓した。同年10月に開催された具体の初めての展覧会では、次から次へと鳴るベルの列を配置した《作品(ベル)》を制作した。それより約3ヶ月前に、カラフルで巨大な布を屋外で用いる作品に取り掛かる。例えば、10平方メートルのピンク色の絹布を地上から30cmほどの高さに張り、野外で風に吹かれるままにした。《作品》というタイトルのこの作品は、2007年にカッセルで開催されたドクメンタ12でも再制作された。
その後間も無く、田中は、舞台を使用する具体のパフォーマンスのために衣服のシリーズを制作する。中でも、光る電球とネオン管によって仕立てられた《電気服》は、1956年10月に開催された具体の2回目の展覧会で田中自身が着衣して披露することで、世界的な名声を彼女にもたらした。本作は、初めて電気が使われた芸術表現作品の一つである。作家は、大阪の薬局で見かけた人工的でカラフルな光の美しさを放つネオンに魅了されたと説明している。1960年代のフェミニストの言説を予言するかのように、第二の皮膚としての衣服に身を包みながら、田中は女性的な身体とその外皮の関係に焦点を当てた。この作品は、1986年、パリのポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本1910ー1970」で再現された。これらの衣服の制作に基づく素描は、やがて、電気の回路と光が多彩な円と線に置き換えられ、幾何学的な抽象へと展開する、真に独自の絵画的取り組みへと向かった。
田中は1965年に具体を脱退したが、ニューヨーク近代美術館の国際部門が企画の中心となり、1965年から1967年にかけてアメリカを巡回した重要な展覧会「新しい日本の絵画と彫刻」に参加している。1968年、砂の上に消えてしまう円と線を書いた《Round on Sand》というパフォーマンスを行なった。2001年の芦屋市立美術博物館での回顧展に続き、2004年にニューヨークのグレイ美術館で2回目の回顧展「電撃的な美術:田中敦子 1954ー1968」が開催された。2013年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館での「Gutai : Splendid Playground」で、田中の重要な作品が展観された。