日本人画家
1942年東京府立第二高等女学校卒業後、戦後の47年東京音楽学校(現・東京藝術大学)声楽科を卒業。翌48年音楽学校の同級生だった芥川也寸志(作曲家、1925–1989年)と結婚した。1950年代初めから、生け花、ろうけつ染、絵画を習い始める。それは家庭生活のなかで歌を歌うのを夫に遠慮し、声楽の道を断念してから、女学校時代に描いていた絵画の道への復帰でもあった。ろうけつ染は野口道方について、油絵は猪熊弦一郎(1902–1993年)の研究所に通って学んだ。のちに(1954年)中国に招待された夫とともに、中国、ソ連、東欧を数か月間旅行するが、その体験が彼女ののちの民話シリーズの素地の一つとなる。
1954年、第6回日本アンデパンダン展に2点出品し(第9回まで出品)、同年の第4回モダンアート展には絵画10点出品して全部入選し、新人賞を受賞した(第5回展も出品)。さらに同年6月銀座、養清堂画廊で瀧口修造(1903–1979年)に推薦文をもらって初個展を開催し、有力な新人として大きな評判を得た。続いて同じ養清堂画廊で開催された「女流7人展」に、安部真知(1926–1993年)、オノサト・トモコ(1931–1993年)、草間彌生(1929年–)らとともに選ばれて出品。1955年には岡本太郎(1911–1996年)に誘われて二科会に入り、第40回二科展の岡本太郎室(第九室)に染色画《女(B)》(1955年)、《女Ⅺ》(1955年)などを出品して特待賞を得る(第43回まで出品)。また第2回個展(村松画廊)でも民話に基づく染色画を出品した。この頃の芥川紗織は、ろうけつ染を絵画に適用した技法を使って、まったく独自の鮮烈なイメージを切り開いた。それは、笑い、怒り、泣き叫び、戸惑う、女の顔を中心としたシリーズに始まり、日本の民話や神話に取材した神々の誕生や壮大な国造り伝説へと発展した。1955年9月に東京国立博物館で開催されたメキシコ美術展からも大きな感銘を受けたという。同年には他に「今日の新人・1955年展」(神奈川県立近代美術館)にも出品。
1956(昭和31)年には、池田龍雄(1928–2020年)、河原温(1932–2014年)、吉仲太造(1928–1985年)らと第1回4人展(サトウ画廊)を開催。第4回平和美術展に《涕泣する須佐之男命》(染色画、1956年頃)を出品。第41回二科展には《神話-神々の誕生》(染色画、1956年)を出品。「世界・今日の美術展」にも選ばれて《八百神の迫害》(染色画、1956年頃)を出品。さらに第2回4人展(村松画廊)に、《日本武尊の毒魚退治》(染色画、1956年)、《民話より天かける》(染色画、1956年)等を出品。1957(昭和32)年にも活躍は続き、第3回個展(村松画廊)で176×1346cmにおよぶ染色画大作《古事記より》(1957年)を出品、一連の神話シリーズの集大成とした。同年第11回女流画家協会展に出品し、船岡賞を受賞。
しかしこうした画家としての並外れた活躍が家庭生活との齟齬を来たし、1958年4月、二人の娘を残して芥川と離婚。翌59年9月アメリカに出発し、60年までロサンゼルスのアートセンター・スクールでグラフィック・デザインを学ぶ。60年9月にニューヨークに移り、日米女流画家交歓展(リヴァーサイド美術館)に、桂ユキ子(1913–1991年)、草間らとともに在米出品者として、旧姓の山田紗織の名で参加した。61年ニューヨークのアートスチューデンツ・リーグのウィル・バーネット(1911–2012年)の教室で油彩を学び、以後は染色画をやめて、油彩による人体に基づく抽象画に転じた。1962年帰国して、第4回個展(京都、昭和画廊)で滞米作を発表。翌63年アメリカ行きをともにした建築家、間所幸雄 (1930–1998年)と再婚。同年第17回女流画家協会展にも出品した(第19回まで)。しかし、赤と黒、朱とモーブなどの限られた色彩で形態を追求した新しい方向の絵画を十分に展開する前に、1966年1月31日妊娠中毒症により、41歳で逝去した。同年(村松画廊)と1973年、セントラル美術館で遺作展が開催された。
「19世紀から21世紀の日本の女性アーティスト」プログラム