韓国人実験映画作家、映画評論家
ハン・オクヒは梨花女子大学で韓国文学を専攻した。雑誌の記者として働いていたとき、既成文化への反抗を表明する若い世代の映画製作者、画家、作家たちと出会った。実験映画に興味を抱くようになり、同じビジョンを持つ仲間たちを見付けた。
キム・ジョムソン、イ・ジョンヒらとともに、ハンは、モンゴルの戦士カイドゥーにちなんで名付けられた韓国初の女性による実験映画製作コレクティブ、カイドゥー・クラブを設立した。1970年代の厳しい独裁政権、維新体制下では、映画は政府によって厳しく検閲されていた。1970年代の韓国映画では、女性は男性によって理想化され、女性は恋人のために自己犠牲を払う存在として描かれていた。映画は男性のものと考えられており、女性には許されていなかった。また映画製作はもっぱら商業目的で行われ、実験的、芸術的な目的で行われることはなかった。
ハンはこうした偏見を克服したいと考えた。1974年7月27日から31日にかけて、カイドゥー・クラブは韓国で初めての実験映画祭を開催した。フライヤーの中で、ハンは自身のビジョンを次のように発表した。「既存の映画には2つの偏見がある。映画製作は男性の仕事であり、映画は楽しいものでなければならないという偏見だ。私たちはアウトサイダーとして、これらの偏見を打ち破る」。ハンは韓国の家父長的な映画業界に反対し、女性による実験映画の制作を推進しようとしていた。このフェスティバルで、ハンはパフォーマンスをベースにした16ミリの実験映画『The Hole(穴)』(1973年)、『The Middle Dog’s Day(中伏)』(1974年)、『The Rope(ロープ)』(1974年)を上映した。
1975年4月19日、カイドゥー・クラブは、USISプレスセンターで「女性と映画界」と題するシンポジウムを開催した。シンポジウムでは、「映画界における女性」、「文学や映画は女性のキャラクターをどのように描写しているか」、「映画製作への女性の参加をどのように促進するか」といった、現在でも関連性のあるテーマが取り上げられた。
カイドゥー・クラブのアーティスティックな活動は文化シーンに大きな影響を与えたが、継続は不可能だった。個人的な理由で退会するメンバーがいた上に、財政難もあった。カイドゥー・クラブが上映したのは、ハンの『Three Mirrors(三枚の鏡)』(1975年)と《75-13》(1975年)、そしてイ・ジョンヒの『But we have to depart again(しかし、また出発しなければならない)』(1975年)の3本だけだった。カイドゥー・クラブの実験映画祭は1977年まで続いた。
ハンは、1979年、ベルリン自由大学で映画を学ぶためにドイツに渡り、文化雑誌『客席(ケクソク)』のドイツ特派員として映画や演劇の批評を寄稿した。1988年に韓国に戻り、カイドゥー・プロダクションを設立した。国家行事のドキュメンタリー映画やプロモーション映画を制作した。『Running Korean(走る韓国人)』(1993年)、『Little Price’s Journey to the Earth(リトル・プライスの地球への旅)』(1999年)などがある。
2001年に第3回ソウル国際女性映画祭が映画業界における女性名鑑を発行した際には、ハンとカイドゥー・クラブが時代を先取りした活動を行ったとして大きく取り上げられた。チェ・ジョンハンやムン・グァンユら研究者がハンの作品に関する論文を発表した。全州国際映画祭では、ハンの作品を、先駆的な女性映画監督6人の作品とともに紹介した。また、韓国内外の映画祭や美術館で、ハンの作品の上映を企画するケースが増えている。
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