日本人アーティスト
1924年に日本統治下の台湾・高雄市で生まれ、父の赴任に伴い朝鮮・京城(現・ソウル)にて成長期を過ごした多田美波は、現地の教師より個人的に西洋画の指導を受け、朝鮮美術展覧会に出品・入選。家族は終戦を前に日本に引き揚げ、多田は1944年女子美術専門学校師範科西洋画部を卒業した。
1956年、第41回二科展(東京都美術館)に油彩画を初出品し入選。以後、同館で開催されていた二科展および読売アンデパンダン展に、1960年代初頭頃まで断続的に出品した。その中でも《変電所》と題された絵画群は、電線や鉄塔を思わせる力強い線の交錯や、プリズムを想起させる色彩構成を共有し、エネルギーや光といった非物質的な要素への関心がすでにうかがえる。1957年には、新海覚雄(1904-1968年)も参加した日本炭鉱労働組合会館のレリーフ・コンペが行われ、多田の《炭鉱》が採用される。本作は、多田にとって初の立体的造形であり、建築と結びついた仕事となった。その後もプラスチックと鉄を組み合わせた彫刻や、異素材を用いた抽象絵画など様々な模索を試みた後、1960年の第45回二科展にはブロンズ彫刻を出品し、特選を受賞。こうして絵画と立体表現を往還しつつ素材や技法の探究を重ねる過程で、女性彫刻家グループ「赫」にも参加する。1962年、東京・久我山に多田美波研究所を設立し、アクリルをはじめとする新素材の研究に取り組む。同年、第8回プラスチックス製品展(銀座松屋)など複数のデザイン展に照明作品を出品し、評価される。翌1963年には、アルミニウムを素材とする大型彫刻を発表、ハンマーや加熱による加工を用いながら、直接的な「手跡」を消去しようとする姿勢が顕著になる。また、「光造形」と呼ばれる天井照明の仕事もこの頃から始まった。1965年には、《周波数37306505》を第8回日本国際美術展(東京都美術館)に出品し優秀賞を受賞。いびつな半球状のアクリルにアルミ蒸着を施し、周囲の環境を映し込むこの作品は、その後の作風を方向づける重要な転機となった。
これ以降、多田は彫刻と建築空間における仕事を並行して展開し、評価を確立していく。とりわけ、宇部市野外彫刻美術館および神戸須磨離宮公園で行われる野外彫刻展には1980年代初頭まで断続的に参加し、数々の賞を受賞した。また、「空間から環境へ」(1966年、銀座松屋)をはじめとする重要な展覧会にも出品している。1979年には、第1回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根彫刻の森美術館)で《極》により大賞を受賞し、あわせて第8回現代日本彫刻展(宇部市)では《Chiaroscuro》により東京国立近代美術館賞を受賞した。
建築空間における仕事では、1968年の皇居・新宮殿における光造形が大きな転機となり、多田の名は広く知られるようになる。以降、帝国ホテル 東京の光壁《黎明》(1970年)、京王プラザホテルの《Space Terminal》(1971年)、大阪ロイヤルホテル(現:リーガロイヤルホテル大阪 ヴィニェット コレクション)の光造形《瑞雲》(1973年)、銀座・Leeビルのファサード(1974年)など、大規模な造形を次々と手がけた。
1980年代以降は、カラーアルマイトやラスター釉薬を施した陶板など、新たな素材や技術を用いた作品にも取り組み、色彩表現の幅をさらに広げていく。2013年のオリーブベイホテル(長崎)におけるレリーフ制作を最後の仕事として、2014年、東京にて逝去した。主な受賞歴に、第21回毎日芸術賞(1980年)、第6回吉田五十八賞(1981年)、芸術選奨文部大臣賞(1983年)、紫綬褒章(1988年)、勲四等宝冠章(1994年)。